大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和60年(ク)256号 決定 1985年7月19日

八王子医療刑務所在監

抗告人・被拘束者

平澤貞通

右代理人弁護士

遠藤誠

抗告人

遠藤誠

相手方

法務大臣

嶋崎均

相手方

検事総長

江幡修三

相手方

八王子医療刑務所長

吉永亨

右三名指定代理人

中島重幸

右抗告人らは、東京地方裁判所昭和六〇年(人)第二号、第三号人身保護請求事件につき、同裁判所が昭和六〇年五月三〇日にした請求棄却の決定に対し、抗告の申立をしたので、当裁判所は、裁判官全員一致の意見で、次のとおり決定する。

主文

抗告人らの相手方八王子医療刑務所長に対する本件抗告を棄却する。

抗告人らのその余の相手方に対する本件抗告を却下する。

抗告費用は抗告人らの負担とする。

理由

一抗告人兼抗告代理人遠藤誠の抗告理由第一点及び同第二点のうち憲法三一条違反をいう部分について

所論の点に関し、死刑の確定裁判を受けた者が刑法一一条二項に基づき監獄に継続して拘置されている場合には死刑の時効は進行しないとした原審の判断は、正当として是認することができ、右判断に法令の解釈適用の誤りがあることを前提とする所論違憲の主張は、前提を欠く。論旨は採用することができない。

二同第二点のうち憲法三六条違反をいう部分について

刑法一一条二項所定の拘置は、死刑の執行行為に必然的に付随する前置手続であつて、死刑の執行に至るまで継続すべきものとして法定されている。したがつて、所論のような拘置ののちに死刑の執行をすることは、当裁判所大法廷の判例(昭和二二年(れ)第一一九号同二三年三月一二日大法廷判決・刑集二巻三号一九一頁、昭和二六年(れ)第二五一八号同三〇年四月六日大法廷判決・刑集九巻四号六六三頁)の趣旨に徴すれば、憲法三六条にいう残虐な刑罰に当たらないことが明らかであるというべきである。所論の点に関する原審の判断は相当であり、論旨は採用することができない。

三その余の抗告理由について

最高裁判所が抗告に関して裁判権を有するのは、訴訟法において特に最高裁判所に抗告を申し立てることを許容した場合に限られ、人身保護請求事件において請求を棄却した決定については、人身保護規則四六条の規定により民訴法四一九条ノ二所定の原審の「裁判ニ憲法ノ解釈ノ誤アルコト其ノ他憲法ノ違背アルコト」を理由とする抗告のみが右の場合に当たるということができる。ところが、所論は、違憲をいうが、その実質は、刑の時効に関する刑法三二条ないしその関係法令の解釈適用についての主張であつて、民訴法四一九条ノ二所定の場合に当たらないと認められるから、右は適法な抗告理由ということはできない。

四相手方法務大臣及び同検事総長に対する抗告について

原決定は、抗告人らの相手方法務大臣及び同検事総長に対する各請求については、右相手方らが人身保護法及び人身保護規則に定める「拘束者」に当たらず、右各請求が不適法であるとして、これらを同法一一条一項、同規則二一条一項一号により棄却している。ところが、抗告人らは、右相手方らに対する抗告については、右決定に関する抗告の理由を記載した書面を提出していないから、右抗告は不適法であるといわなければならない。

五よつて、本件抗告のうち、相手方八王子医療刑務所長に対するものを棄却し、その余を却下し、抗告費用は抗告人らに負担させることとし、主文のとおり決定する。

(和田誠一 谷口正孝 角田禮次郎矢口洪一 高島益郎)

抗告人・抗告人平澤貞通代理人遠藤誠の抗告理由書記載の抗告理由

第一点 原決定には憲法三一条・三四条の解釈の誤りおよび同条の違背がある。

一 すなわち、憲法同条によれば、「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない」と規定され、また同法三四条後段によれば、「何人も、正当な理由がなければ、拘禁されない」と規定されている。

ところで抗告人平澤は、昭和六〇年五月七日以後、「法律の定める手続によらな」いで、「その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられ」ており、また、「正当な理由がな」いのに、「拘禁され」ているものである。

すなわち、刑法三二条一号によれば、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス。一 死刑ハ三十年」と規定され、同法三一条によれば、「刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ時効ニ因リ其執行ノ免除ヲ得」と規定されている。

そして、三二条の「其執行」を「刑ノ執行」と読むか、「刑ノ言渡ノ執行」と読むかについては争いがあるが、仮りに「刑ノ言渡ノ執行」と読んでも、その場合の「刑」は「死刑」なので、それは、「死刑ノ言渡ノ執行」となる。

そして「死刑ノ言渡ノ執行」とは、要するに「死刑ノ執行」のことである。

したがつて、死刑の言渡が確定してから三〇年間、死刑の執行を受けなければ、死刑の時効は完成してしまうのである。

そして、死刑の時効が完成してしまえば、「死刑ノ執行ノ免除ヲ得」(同法三一条)るわけだから、同法一一条二項の目的がなくなり、したがつて一一条二項が適用されなくなるので拘置の法的根拠がなくなつてしまうので、それ以後の身柄拘束は、「法律の定める手続によらな」い「自由」の侵奪となり(憲法三一条)、また、「正当な理由がな」い「拘禁」となつてしまう(憲法三四条後段)のである。

二 この点につき、原決定は、まず、つぎのように言う(原決定九五頁―九八頁)。

「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされているのであるから、この拘置がなされている限り、時効の成立要件に当たらず、時効はそもそも進行しないこととなる」と。

しかし、それは、全くの誤りである。

1 まず、刑法三二条の「其執行」は、どう読んでも、「死刑ノ執行」としか読めない。

すなわち、もし刑法三二条の「其執行」を、原決定にあるように、「死刑を言い渡した確定裁判の執行の一部である拘置を含むもの」と解すると、同法一一条二項の「其執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」という規定の意味は、「死刑の確定裁判を受けた者を監獄に拘置するに至るまで之を監獄に拘置する」という、意味不通の文になつてしまう。

ところで、同一法典中の同一語法にたいする統一的解釈の原則からすれば、不統一な解釈により受刑者に不利となることは、刑法の厳格解釈の要請上、絶対に許されない。

2 また、原決定の言うように、「死刑の確定裁判の執行」中は、死刑の時効が一日も進行しないとすれば、死刑を言い渡した裁判の確定後、逃亡した者を追跡し、捜索し、見つけ出し、逮捕し、監獄に引致しこれに引き渡すこともまた、死刑の確定裁判の執行であると言わざるをえない。

そうすると、原決定の説にしたがえば、死刑の確定裁判を受けた後逃亡した者にたいしても、死刑の時効は全く進行しないことになる。

そうすると、時効制度そのものが空文となつてしまうのである。

3 つまり、刑法三二条の「其執行」は、あくまで「死刑ノ執行」なのである。そして、「死刑ハ監獄ニ於テ絞首シテ之ヲ執行ス」(刑法一一条一項)とあり、すなおに読むかぎり、死刑の執行、イコール、絞首である。

また、同条二項は、「死刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ其執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」と定めており、ここでも、死刑の執行、イコール、絞首と解するほかはない。

刑法三二条一号の解釈においても右と同様であり、そこでの執行の概念には拘置は含まれない。

懲役刑の執行は刑務所への拘禁であり、罰金刑の執行は金銭の収納であるから、これらと同様に解すれば、死刑の執行は、絞首のみである。

4 また、かりに文理をはなれて、刑法三二条の「其執行」を原決定のように「死刑を言い渡した確定裁判の執行」と解するとしても、その裁判の内容が問題である。死刑を言い渡した確定裁判は、被告人を死刑に処することのみを定めるものであつて、「死刑ノ執行ニ至ルマテ之ヲ監獄ニ拘置ス」ることまで定めるものではない。監獄への拘置は、それとは別の、死刑の裁判の執行に至るまでの、刑法一一条二項により定められた、その言渡しを受けた者にたいする処遇にすぎない。

5 また、「其執行ヲ受ケサルニ因リ」とは、死刑囚の場合、「死刑の執行を受けないことに因り」と解すればよく、「死刑を言い渡した確定裁判の執行を受けないことにより」と解するのは、憲法三一条にその根拠をおく罪刑法定主義に反する解釈である。

6 また、刑法三二条を含む同法第六章の章題が「刑の時効及ヒ刑ノ消滅」とあるように、三一条・三二条に言う「時効」は、「刑ノ時効」のことである。

そこで三一条に「時効」とあるところを章題のとおり「刑ノ時効」と入念に書けば、同条は「刑ノ言渡ヲ受ケタル者ハ刑ノ時効ニ因リ其執行ノ免除ヲ得」となる。したがつて、「其執行」の「其」がその前で二度くり返されている「刑ノ」を指すことは文理上明白であり、すなおに読めば、それ以外の読み方はない。

同様に三二条も、「時効」を、誤解のないよう「刑ノ時効」とし、一号の死刑についてみると、かりに原決定のように「言渡」を「言渡裁判」と読みかえてみても、「(死)刑ノ時効ハ(死)刑ノ言渡裁判確定シタル後左(三十年)ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」となる。

したがつて、「其」がその前に二度くりかえされている「(死)刑ノ」を指すと解するのが、文理上当然であり、すなおだと言うべきである。

また、刑法三四条一項、三四条ノ二第一項、三三条、二五条、二六条、二六条ノ二、二六条ノ三、二七条における「其執行」は、つねに「刑ノ執行」の意味で用いられている。

それにもかかわらず、三二条の場合にだけ「裁判ノ執行」と解するのは、きわめて不自然である。

7 また、死刑執行がなされないまま死刑囚が拘置されているのは、確定判決による刑罰権行使の国家意思宣明後も、法務大臣がその刑罰権の発動をさし控えたまま熟慮している状態がつづいているからである。換言すれば、裁判が確定すれば自動的に死刑という刑罰権を行使するのではなく、死刑の執行は法務大臣の命令による(刑訴法四七五条一項)として、その刑罰権行使(絞首)をさし控えている期間中の死刑囚の処遇が、一一条二項の拘置なのである。

したがつて、この場合、時効が問題となる死刑執行(絞首)という国家刑罰権行使については、その不行使の要件が満たされているのである。

8 また、民法においても、債権を担保する留置権と被担保債権との関係について、「留置権ノ行使ハ債権ノ消滅時効ノ進行ヲ妨ゲズ」(民法三〇〇条)と規定されており、質権についてもそれが準用されている(同法三五〇条)。

すなわち、ある権利を担保するため他人の物を占有する権利を行使していても、そのもとになる権利自体が行使されなければ、その権利の消滅時効の進行を妨げるものではない。

同じように、死刑の執行(絞首)を確保するためその準備として身柄を拘置する権限が行使されていても、死刑を執行する刑罰権自体にかかる時効の進行を妨げる規定はないし、ことがらの性質からも、その両者は、別個のものである。

9 また、原決定の言うように、三二条の「其執行」を「刑ヲ言渡シタル確定裁判ノ執行」と読むのであれば、立法の際に、そのような表現を行なつていたはずである。

その原決定も、三二条以外の「其執行」をすべて「刑ノ執行」と解している。

ところが、三二条の解釈に限つて、右のように非常識な解釈をしているのである。

10 そして、抗告人の以上の説は、現在日本の大多数説である。

すなわち、

① 甲二八号証(沢登佳人教授)

② 甲二九号証(庭山英雄教授)

③ 甲三〇号証(佐藤昭夫教授)

④ 甲三一号証(斉藤信宰助教授)

⑤ 甲四〇号証(粕谷進教授)

⑥ 甲四一号証(ホセ・ヨンパルト教授)

⑦ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑧ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑨ 甲五〇号証(金沢文雄教授)

⑩ 甲五一号証(佐藤昭夫教授)

⑪ 甲五二号証(斉藤信宰助教授)

⑫ 甲五五号証(重松明久教授)

⑬ 甲六八号証(佐藤昭夫教授)

⑭ 甲七一号証(沢登佳人教授)

⑮ 甲七五号証(「法学教室」昭和六〇年六月号)

三 さらに原決定は、言う(原決定九八頁―一〇〇頁)。

「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判自体の効力として執行されるものである」と。

しかし、前にものべたように、それも間違いである。

1 拘置は、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」ではなしに、一一条二項によつて特別にみとめられた一種独特の拘禁である。

それは、刑訴法四八四条による「死刑の言渡を受けた者」にたいする「執行のための呼出し」または「収監状」の発付が、「死刑を言い渡した確定裁判の執行」ではなしに(このことは、相手方も認めている……原審における相手方の準備書面(二)一〇頁)、刑訴法四八四条によつて特に認められた手続であるのと同様である。

2 逆に原決定の言うように、「拘置」を「死刑を言い渡した確定裁判の執行」と解し、「だから時効は進行しない」と解すると、同様に「死刑執行のための呼出しまたは収監状の発付およびそれにもとづく追跡、捜索」もまた「死刑を言い渡した確定裁判の執行」となり、かくては逃亡者にたいしても時効は進行しないことになつてしまう。

3 そして、このことも、通説である。

すなわち、

① 甲一一号証(沢登佳人教授)

② 甲二八号証(沢登佳人教授)

③ 甲三一号証(斉藤信宰助教授)

④ 甲四〇号証(粕谷進教授)

⑤ 甲四一号証(ホセ・ヨンパルト教授)

⑥ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑦ 甲五〇号証(金沢文雄教授)

⑧ 甲五一号証(佐藤昭夫教授)

⑨ 甲六八号証(佐藤昭夫教授)

⑩ 甲七一号証(沢登佳人教授)(六頁―一〇頁)

⑪ 甲七五号証(法学教室)一二一頁第二段

⑫ 甲七六号証(庭山英雄教授)

四 さらに原決定は、刑の時効の制度の趣旨につき、言う(原決定一〇〇頁―一〇五頁)。

「犯人の逃走等によつて長期間刑の執行が行われない状態が継続すると……犯人は曲りなりにも一般の社会人としての日常生活を長期間にわたつて送つていることから、本人について一定の一般的な社会生活関係が形成されて行く。……これにたいし、死刑の執行に至るまで継続して拘置されている場合には、前述した刑の時効を進行させる基礎となる事実関係は存在しない。

……犯人は、死刑の執行を受けるべき者として一貫して扱われ、一般社会から隔離されているものである。……先述した一般的社会生活を送つてきた者と比し、質的に差異があるというばかりか、懲役刑、禁錮刑等の自由刑が現に執行されている場合と選ぶところがない。……そして、もし、拘置されてきた者を刑の時効によつて一般社会に釈放するということになれば、それまで形成維持されてきた死刑の執行を受けるべき者としての生活関係をそのままの姿で尊重するということではなしに、それ以上の効果をもたらすことになるので、このことは先の時効の趣旨を明らかに超えるものである……」と。

ところがここで原決定は、重大なミスを犯している。

1 すなわち、本件において、過去三〇年間、形成維持されてきた事実関係・生活関係は、歴代の法務大臣が抗告人にたいする死刑執行命令書にハンを押さないため、抗告人が殺されないできたという事実関係・生活関係である。

そして原決定が言うように、そのような「社会的事実関係、事実状態を一つの秩序とみて、その秩序を尊重し、覆えさないことがかえつて社会的安定に資するとするのが刑の時効の制度である」とするならば、今後とも、歴代の法務大臣が抗告人にたいする死刑執行命令書にハンを押さず、抗告人が今後とも殺されないで行くという「秩序」が今後においても「尊重」され、覆えされてはならない「秩序」だと言うことになる。

この点については、原決定自身が、「三〇年間の身柄拘置を経た上で死刑執行命令を発することが妥当かどうかの問題はある」と断じているところである(原決定一二三頁)。

すなわち、抗告人が今後とも殺されないことが「秩序」なのである。

ところが刑法一一条二項は、死刑の執行をするために拘置するという規定なのである。単なる無期禁錮の規定ではない。

そうすると、死刑執行をしないことが「秩序」だとなつた瞬間に、同条項はこれを適用するに由なくなり、よつて、昭和六〇年五月七日以後の拘束は、まさに「法律の定める手続によらな」い自由侵奪(憲法三一条)となり、また「拘禁」(同法三四条後段)となつてしまうのである。

それとも原決定は、「死刑執行のなされないことが明らかになつたときでも、それを目的とした刑法一一条二項がなお適用される」と言うのであろうか。

それとも原決定は、「これからでも死刑の執行ができる」と言うのであろうか。もしそうだとすればこれまで三〇年間殺されないできた秩序が今や形成されているのにたいし、「これから殺してもいい」という点において、まさに「これまで形成維持されてきた生活関係をそのままの姿で尊重するということではなしに、それ以下の効果をもたらすことになるのであつて、このことは時効の趣旨を明らかに無視することになる」(原決定の一〇四頁―一〇五頁のパロデイ)のである。

2 さらに又原決定は「拘置の執行は、懲役刑、禁錮刑等の自由刑が現に執行されている場合と選ぶところがない」と言つている(一〇四頁)。

懲役刑、禁錮刑で拘禁されている場合は、正に「刑の執行」そのものであるから、時効が進行するはずはない。

ところが、原決定自身「拘置は、固有の意味での刑罰ではない」とはつきり言つているように(原決定九九頁)、何ら「刑の執行」ではない。

そして、刑の執行を受けないで一定期間経過したときに完成するのが時効なのである。

原決定は、ミソとクソを一しよにしている。

ちなみに、拘置中の死刑囚に時効が完成するという学説は、今回の裁判になつてはじめて登場したように思われているが、実は、明治二六年からあるのである。

① 宮城浩蔵・刑法正義(明治大学創立百周年記念学術叢書第四巻)二〇〇頁<昭和五九年(初版明治二六年)>

「死刑に付きて執行を遁れたると云ふは、現に犯者の生命を奪はざる以前、即ち既に絞首すべく確定して之を行はざる限りは、其獄中に在ると、逃走して外に在るとを問わず、皆死刑の執行を遁れたる者なり。

若し此の如く獄中にて三十年を経過したらんには、全く期満免除(筆者注――今の刑の時効)を得たる者と謂はざる可からざるなり。」

② 岡田朝太郎・日本刑法論総則之部九一六頁(明治二八年)。

同旨。

3 また原決定はそこで、さかんに「死刑の執行を受けるべき者として」とくりかえしているが、それは当為概念であるのにたいし、時効は、当為規範と事実とがくいちがつたときに事実を優先させる所にその本質があるのであるから、時効の成否を論ずるのに当為概念を持ちこむのは、許されないことである。

すなわち、時効制度の根幹をなす事実上の秩序というものは、法律上の当為の秩序とはことなるのである。たとえば、死刑の言渡しを受けた者が裁判確定後に逃亡した場合、その者をめぐつて形成される社会関係も、国家法秩序の立場からみれば、同人が逮捕されるべきものとしているのであり、「死刑の執行を受けるべき者」であることにかわりはないのである。

しかし、それでも死刑の執行を受けることがなかつたという事実上の状態・事実上の秩序が形成されており、刑の時効が進行することは、原決定も認めているのである。

そしてそうした事実上の状態・事実上の秩序は、本件の場合も、同様に形成されているのである。

時効の完成を否定し、今後の死刑の執行を認めることは、こうして三〇年間にわたつて続いてきたこの事実上の秩序を破壊することになるから、そのような刑罰権の行使は、原決定(一〇〇頁―一〇五頁)の認める時効制度の趣旨からも、とうてい許されないはずである。

そして死刑の時効が完成すれば、死刑を前提として行われている拘置は、その前提を欠き、違法となるのである。

4 そしてこのことも、多数説である。

① 甲三号証(浅井清信教授)

② 甲二八号証(沢登佳人教授)

③ 甲三四号証(福田敏南教授)

④ 甲三五号証(茂野隆晴教授)

⑤ 甲三九号証(難波田春夫教授)

⑥ 甲四〇号証(粕谷 進教授)

⑦ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑧ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑨ 甲五〇号証(金沢文雄教授)

⑩ 甲五一号証(佐藤昭夫教授)

⑪ 甲七一号証(佐藤昭夫教授)

⑫ 甲七二号証(金子 勝教授)

⑬ 甲七四号証(戸田武雄教授)

⑭ 甲七五号証(庭山英雄教授)一二〇頁第四段

五 さらに原決定は、刑の時効の中断との関係につき、つぎのように言う(原決定一〇五頁―一一三頁)。

「刑法三四条一項によれば、死刑についてもその執行のために犯人を逮捕することが時効の中断事由となることが明らかなのであるが、このことは、時効の中断の趣旨理由からすれば、刑法は、死刑を執行するために犯人の身柄を拘束することを、死刑の時効の進行の基礎となつた事実とあい反する事実に当たると評価していることが明らかである。

……したがつて、死刑執行に至るまで一定期間継続する拘置については、それ以上の理由で、時効の進行とはあい反する、むしろそもそも時効の進行すら問題とならない死刑の執行と同視できる事実状態と評価しているものというべきである」と。

1 ところで、ここで原決定は、時効の中断と時効の停止とのちがいを、全く忘れている。

すなわち中断とは、瞬間的に終わり、またそこから時効が再進行するものであるのにたいし、停止とは、継続的に時効の進行がとまつてしまう状態を言う。

(そして、中断においては、中断事由がやめばさらに新たに時効期間(すなわち三〇年)の進行がはじまるのにたいし、停止においては、停止事由がやめば残りの時効期間の進行がはじまるという点においても、その本質を異にする。)。

そして、刑法三四条一項に言う「刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕」することは、まさに瞬間的に終わるので、これを中断事由としているのである。

ところが、「死刑執行に至るまで一定期間継続する拘置」(原決定)というものは、瞬間的に終わるものではなしに、まさに原決定自身が言つているように「一定期間継続する」ものであるから、仮りにそれをもつて「時効の進行とはあい反するもの」(原決定)とするのであれば、それは「時効の停止」ということになる。

ところが時効の停止につき刑法三三条は、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」と定めるのみで、「刑法第十一条第二項ニ依リ拘置シタル期間亦同シ」とは規定しなかつた。

かくして原決定は、ここでも、刑法の条文に書いてない言葉を補うことにより、かつ元被告人に不利益な解釈を導き出している点において、憲法三一条によつて厳禁されている刑法の類推解釈をしているのである。

2 学説もそうである。

○ 沢登佳人教授(甲四九号証)

「時効が常にその進行を妨げられている状態にあるとは、『時効が中断されている』のではなくて、『時効が停止されている』状態にあることをしか意味しえない。中断は一瞬にしてなされかつ終るから、進行形(ている)で表わすことはできない。『時効が中断される』ことはできても、『時効が中断されている』ことはできず、『時効を中断する』ことはできても『時効を中断している』ことはできない。

これと全く対蹠的に、『時効は一定期間停止している』ことはできるが、『一瞬にして停止しかつ進行を開始する』ことはできない。

故に、『時効の進行が妨げられている状態』とは『時効が停止されている状態』であつて、絶対に『時効が中断されている状態』ではありえない。

拘束者の議論は、時効の中断の話がいつの間にか時効の停止を内容とするものに変質するという、手品の早業、すりかえ論である。

そして刑法三三条によれば、拘置は、時効の停止事由とはされていないのである。」

3 さらに又、時効の中断とは、その中断事由がおわれば、さらにまた新たに時効の進行がはじまるものである(この点については、拘束者の援用する藤木英雄説も同旨……乙一四号証三七三頁)。

そして、刑法三四条一項の場合、中断事由は「逮捕」であるから、逮捕手続が終われば中断事由はそこで終わるわけである。

ところで「死刑の執行のための逮捕」とは何か。そして、それは、刑法一一条二項の拘置をも含むのか。断じて否である。

すなわち、刑事手続上、逮捕とは、それまで身体的に自由であつた人をまず捕えた上で身柄拘束のまま彼を法が予定する次の段階に移送する手続のことである。したがつて、移送のために常識上必要にして十分な時間を超えて自由を拘束することは絶対に許されない。

被疑者を捕えた上でこれを勾留手続に移送する手続としての被疑者の逮捕は、その代表例であつて、法律により、その期間が厳しく制限されている。

確定判決を受けた逃亡者を逮捕した場合も、同様に、捕えた逃亡者を、次の手続段階たる監獄内の拘禁手続に直ちに移送しなければならない。

自由刑に処せられるべき場合には、拘禁手続、即、自由刑の執行であるけれども、しかし、その拘禁を、刑の執行に先立つ逮捕手続と混同することはできない。故にその場合、逮捕が監獄内の拘禁手続への移送の完了をもつて終わることは明らかである。

また、移送された人が死刑に処せられるべき場合には、拘禁、即、死刑の執行ではないから、現実に死刑の執行の着手があるまでは、拘禁手続を、逮捕の継続、即ち被逮捕者を次の手続たる死刑の執行に移送する過程の一部と解する余地がありそうに見えるかもしれない。

しかし、その解釈は、つぎの理由によつて成り立たない。

すなわち、逮捕による身柄拘束下の移送は、なるほど、時として複数主体により次々に引き継がれることができる。しかし、移送である限り、それは通算して短期間になされなければならない。

もし、引継ぎの或る段階以後、法がかなりの長期間にわたる身柄拘束を定めているとすれば、それは単に移送のために必要だという理由で認められているにすぎないものではなく、移送以外の目的を達成するために必要だという理由で認められているのである。

したがつてその身柄拘束を伴う手続は、移送のための身柄拘束たることを本質とする逮捕とは、本質的にことなる手続なのである。

被疑者逮捕は、複数の主体に次々と引き継がれうるが通算して七二時間を超えず、それに引きつづく所の、身柄の移送でなく、その確保を目的とする、最大限二〇日間の起訴前勾留または無期限の被告人勾留が、逮捕とは全く別個の手続とされているのは、そのためである。

同様に、死刑囚の身柄確保を目的とする、無期限の、死刑執行に先立つ監獄内拘置も、逮捕とは全く本質をことにする手続なのである。

だからこそ、現行刑法の立法者は、死刑の時効の中断を定めた三四条一項に、逮捕とは全くその本質を異にする拘置を、死刑の時効中断事由として規定しなかつたのである。

4 そして、「死刑執行のための逮捕手続」が終わつて「拘置の手続」に入つたトタン、時効は再進行をはじめるのである。

それは、拘束者が、刑の時効の立法趣旨の疎明資料として出してきた乙一八号証ないし乙二三号証のすべてに、時効の進行する場合として「逃走その他の方法により執行を受けなかつた場合」と記されているとおりである。

原決定は、そのような「逮捕」と「拘置」との間の本質的差異を見落してしまつたために、憲法三一条に違反する結論を導き出してしまつたのである。

5 百歩ゆずり、「一定期間継続される身柄の拘置のための前置手続として身柄を拘束すること、又は再び拘置の執行に着手することを、時効の進行の基礎となつた一定期間の社会生活関係の継続と全くあい反する、死刑の執行がなされていると同様の又は死刑の執行の着手と同視できる事実状態の発生とみ」、「死刑執行に至るまで一定期間継続する拘置については、時効の進行とはあい反する、むしろそもそも時効の進行すら問題とならない死刑の執行と同視できる事実状態と評価する」という原決定の考え方もありうると仮定しよう。

しかし、同時にその逆の「考え方」、すなわち、「拘置されていても死刑の執行を受けない限り時効が進行する」という考え方もありうるのであつて(現に原決定自身、「刑法三二条にいう『其執行』とは、請求者らが主張するようにその前の名詞である『刑』の執行の意味であると解釈することも文理上は可能といえよう」と言つている……原決定九六頁)、それらはいずれも二つの「考え方」にすぎない。

そして、「考え方」がいくつもありうるときに、法律でどうきめるかは、正に実定刑法のきめ方なのであつて、現実に日本国刑法がある以上、そこに書いてある条文によつて、結論を導き出すしかないのである。

そこで現行刑法には、どう書いてあるかと言うと、何度も言うように、まず、刑法三四条一項には、「時効ハ刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕シタルニ因リテ之ヲ中断ス」とあつて、「第十一条第二項ニ依リ拘置セラレタルトキ亦同シ」とはないのである。

また、同法三三条にも、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」としかなくて、「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シ若クハ第十一条ニ依リ拘置セラレタル期間内ハ進行セス」とは書いてないのである。

そして同法三二条にも、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」としか書いてなくて、「時効ハ刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内刑ノ執行又ハ拘置ノ執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」とは書いてないのである。

しかも、拘置のことを定めた刑法一一条二項は、明治三五年の第一六回帝国議会に提出された刑法案の中に、もともと入つていた規定であるから、もし原決定の言うとおりだとすれば、立法者がこれを三四条と三三条と三二条に書きおとすはずはないのである。

6 しかも、刑法解釈において、元被告人に不利益となるような類推解釈を施すことが憲法三一条違反となることは、通説である。

原決定は、あえてその通説にたいする反逆を試みたものである。

7 さらに、この「法は、拘置につき、逮捕という中断事由以上の理由で、時効の進行とはあい反する、むしろそもそも時効の進行すら問題とならない死刑の執行と同視できる事実状態と評価している」という原決定の考えにたいしても、日本国中の刑法学者は、反対している。

すなわち、

① 甲一号証(庭山英雄教授)

② 甲二号証(同教授)

③ 甲一一号証(沢登佳人教授)

④ 甲一九号証(藤井紀雄教授)

⑤ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑥ 甲七五号証(庭山英雄教授) 一二一頁第二段以下

六 さらに原決定は、刑の時効の停止との関係につき、つぎのように言う(原決定一二九頁―一三六頁)。

「①再審請求がなされた時の検察官の裁量による刑の執行停止の場合(刑訴法四四二条)、再審開始決定をしたときの裁判所の裁量による刑の執行停止の場合(同法四四八条二項)は、それぞれの規定中の『刑の執行』には、絞首による死刑それ自体の執行のほか、死刑執行のための身柄の拘置も含まれるものとした上で、この拘置の執行をも停止しうるとする解釈も十分採り得るのであつて、この解釈にたつて拘置の執行も停止された場合に死刑の時効の進行を停止する趣旨の規定として、刑法三三条は意味を持ちうるから、同条項が死刑の場合に全く無意味になるとはいえない。

②また、刑訴法四七九条一項・二項により死刑の執行が停止される場合は刑法三三条の適用例には含まれないものと解する。」

1 ところでこれまた、とんでもない暴論である。すなわち、原決定からすると、死刑について時効の停止をさだめた刑法三三条が適用されるのは、わずかに刑訴法四四二条・四四八条二項により、再審請求または再審開始決定にともない「拘置の執行停止」がなされたときだけということになる。

ところで、大日本帝国はじまつて以来、刑訴法四四二条但書または四四八条二項により拘置の執行停止がなされたのは、昭和五八年・昭和五九年の免田事件、財田川事件および松山事件について再審無罪判決がなされたときだけである(そして、それらの判決は、そのまま確定している。)

すなわち、「無罪……の裁判の告知があつたときは、勾留状は、その効力を失う」という刑訴法三四五条と同趣旨の規定が、拘置についてはないため、検察官または裁判所が、同条の趣旨による「拘置の失効宣言」として出したのが右の「拘置の執行停止」であつて、無罪判決が言い渡され、かつそれにたいする検事控訴をしないことがきまり、したがつて「これにて無罪の一件落着」となつたときの「拘置の執行停止」という名の「拘置の失効宣言」をもつて、「死刑の時効の停止」をさだめた刑法三三条の適用例とする原審裁判官の頭脳構造は、どうなつているのであろうか。

2 さらにまた、原決定は、「刑訴法四七九条一項・二項は、刑法三三条の適用例には含まれない」としてしまつた。

ところが、日本国中のありとあらゆる刑法総論の教科書・論文には、刑法三三条の適用例としてその冒頭に、「刑訴法四七九条一項・二項」を挙げているのである。

たとえば、

① 団藤重光「刑法綱要総論・改訂版」五二〇頁(創文社)

「時効は法令により……執行を停止(刑訴法四七九条以下等)した期間は進行しない(三三条)。これを時効の停止という。」

② 小野清一郎・中野次雄・植松正・伊達秋雄「ポケット刑法」

初版六五頁

「第三三条〔時効の停止〕時効ハ法令ニ依リ執行……ヲ停止(二)シタル期間内ハ進行セス

二 刑訴四七九条……参照。」

③ 「注釈刑法(1)」

同 旨。

④ 有斐閣の六法全書

「刑法三三条の註

刑の執行停止――刑訴四七九―四八二―心神喪失等

刑訴法四七九条の註

刑三三――刑の時効の停止」

3 したがつて、原決定によれば、「刑訴法四七九条一項または二項により、死刑の執行停止がなされれば、死刑の時効も停止する」という日本国中の刑法学者一〇〇%の説を、みとめないと言うのである。

「みとめない」なら「みとめない」でよかろう。

しかし、そうなると、死刑についても時効が停止されることがあるとした刑法三三条が、意味のある形で適用される場合が、ゼロになつてしまうのである。

すなわち、大日本帝国の議会が、一所懸命考えて作つた刑法三三条の存在を無にしてしまうのである。

4 逆にまた、「それでは困る」ということで、一〇〇%の通説にしたがい、刑訴法四七九条の場合には刑法三三条の適用があることにしたとする。

そうすると、原決定によるも、「刑訴法四七九条一項・二項による死刑の執行停止決定がなされた場合には、常に拘置はなされる」(原決定一三五頁)ところ、その場合、刑法三三条によつて死刑の時効が停止されるのは、死刑(絞首)の執行が停止されたためであつて拘置は何ら停止されてないわけであるから、時効の停止と拘置の継続とは、何の関係もないことになつてしまうのである。

すなわち、時効と拘置とは、何の関係もないことになるのである。

5 これを要するに、刑法三三条と刑訴法四七九条との関係につき、「両者は関係がない」と解すれば、日本国中の通説に反するのみならず、死刑について刑法三三条を全く空文にしてしまい、逆に「関係がある」とすると、拘置の有無と時効進行の有無とは全く関係がないことになり、どちらにしても、抜きがたいジレンマにおち入つてしまうのである。

6 したがつてこれを正しく解釈する道はただ一つ、刑訴法四七九条によつて死刑(絞首)の執行が停止された場合には、刑法三三条によつて死刑の時効も停止するものとし、したがつて、拘置の継続と時効の問題はまつたく無関係であると解すること、それしかないことになるのである。

7 そして、大多数の学説も、そうである。

すなわち、

① 甲一六号証(利谷信義教授)

② 甲四〇号証(粕谷 進教授)

③ 甲七一号証(沢登佳人教授)一一頁以下

七 さらに原決定は、「刑法三二条以外のたとえば同法一一条二項の『其執行』を『絞首による死刑の執行それ自体のみ』と解するのにたいし、同法三二条における『其執行』のみを『刑を言い渡した確定裁判の執行』と解するのは、『統一的解釈の原則』にも、刑法における類推解釈禁止の原則にも、罪刑法定主義にも、刑事法の厳格解釈の原則にも、反しない」と言う(原決定一三六頁―一三八頁)。

1 刑法全体の用語

① しかし、刑法二五条一項本文の「其執行」も、明らかに「刑の執行」の意味である。

② また、同条一項二号の「其執行」も、「刑の執行」の意味である。

③ 同法二五条二項本文の「其執行」も、「刑の執行」の意味である。

④ そして同法二六条ノ二第三号の「其執行」も、「刑の執行」のことである。

⑤ 同法三一条の「其執行」も「刑の執行」のことである。

⑥ 同法三四条ノ二第一項前段の「其執行」も「刑の執行」のことである。

⑦ さらに同法三四条ノ二第一項後段の「其執行」も、「刑の執行」のことである。

⑧ また、同法五六条一項の「其執行」も、「刑の執行」のことである。

⑨ さらに、同法五六条二項には、「其執行」の語が二つもあるが、いずれも「刑の執行」の意味である。

⑩ そして、同法一一条二項の「其執行」が、「絞首による死刑の執行それ自体のみ」の意味であることは、前記のように、原決定も、みとめている。

2 ところで、同一法典中の諸規定、その中でも特に同一関係事項(今の場合、刑法典中の刑にかんする事項)についての諸規定における同一の言葉は、文理解釈上の鉄則として、特別の事情のない限り、すべて同一の意味を表わすものとして解釈すべきである。

そしてこの「特別の事情」のことを、原決定では、「法条の解釈については、その文理のみからだけではなく、その他に、当該規定の趣旨、他の法条あるいはその解釈との整合性、当該解釈をとることによつて生じる利害の較量等諸般の事情を考慮してその法条の予定している意味を合理的に解釈し導き出すべきものであり」と言つており(原決定一三七頁―一三八頁)、そのこと自体は、正しい。

しかし、原決定の一般的命題を前提とし、当該規定の趣旨、他の法条あるいはその解釈との整合性、当該解釈をとることによつて生じる利害の較量等諸般の事情を考慮しても、統一的解釈が可能かつ合理的であるのに、わざわざ不統一な解釈を施すことは、特にそれが元被告人に不利なことになる場合には、刑事上の人権保障の要請に基づく刑法の厳格解釈の要請上、絶対に許されないことである。

3 しかるにこれまで述べてきたように、刑法典の刑にかんする諸条項中の「其執行」は、これを「刑そのものの執行」と解すれば、すべて無理なく意味が通り、かついかなる不合理も生じないのにたいし(もし「不合理」が生ずるとすれば、それは、「死刑の時効完成をみとめることによつて、抗告人を釈放するのはいやだ」という法務省のメンツと、「ここで法務省と正面衝突をする判決を言い渡したのでは、つぎの転勤のときに僻地にとばされることになる」という裁判官の弱さにとつての「不合理」だけである)、原決定の言うように、「刑を言い渡した確定裁判の執行」の全体と解し、かつその中に「拘置」も含まれると解すれば、三一条・三二条においては時効適用の点で元被告人に不利となり、かつ一一条二項においては意味不通となつてしまう。

4 全条文を統一的に、かつ元被告人に有利に解釈することが可能かつ合理的であるのに、原決定のように、わざわざ不統一で、かつ元被告人に不利な解釈(逆に言えば、国家権力にとつて有利な解釈)をとることは、それ自体、人権侵害と言わなければならない。

5 さらにここで原決定は、論理学上の初歩的なミスを犯している。

すなわち、その理由の冒頭においては、「刑法三二条にいう『其執行』とは、請求者らが主張するようにその前の名詞である『刑』の執行の意味であると解釈することも文理上は可能といえよう。しかし、……死刑を言い渡した確定裁判の執行を意味すると解することも文理上十分可能である。……そうして当裁判所は、後述するような……点から考えると、このように解釈せざるを得ないと考える」(原決定九六頁―九八頁)としながら、その「後述」をみると、「前述したような観点から、同法三二条の『其執行』の意義を前記のように解釈することは、合理的、合目的的解釈でありこそすれ、なんら法解釈の原則に反するものではない」(原決定一三七頁―一三八頁)と断ずるに至るのである。

すなわち、「まずAであり、その理由は、Bである」と言つておりながら、「Bである理由は、Aである」と言つているのである。

6 かくして刑法三二条の「其執行」は、どう読んでも、「刑ノ執行」としか読めず、そして本件は「死刑ノ執行」であるところ、「生命刑である『死刑』という刑罰の執行行為としてはあくまでも監獄内での絞首を意味するものである」(原決定九九頁の言葉)から、拘置は含まれず、したがつて本件においては、すでに死刑の時効が完成してしまつているのである。

7 そして、この「法律解釈についての諸原則との関係」についても、学界の多数説は、抗告人の見解と同旨である。

すなわち、

① 甲一一号証(沢登佳人教授)

② 甲二八号証(同教授)

③ 甲二九号証(庭山英雄教授)

④ 甲四〇号証(粕谷 進教授)

⑤ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑥ 甲五〇号証(金沢文雄教授)

⑦ 甲五一号証(佐藤昭夫教授)

⑧ 甲六八号証(佐藤昭夫教授)三頁―四頁

八 また原決定は、「帝銀事件の被害者のうちでさえもその一人が被拘束者の無実を訴え、現在係属中の再審請求事件の弁護側証人として出廷することを望んでいるなど被害感情が和らいでおり、また、被拘束者の釈放を求める世論が年々高まつていること等は、死刑の時効に関する解釈を左右する根拠とすることは許されない」と言う(原決定一四〇頁―一四一頁)。

1 ところがその原決定自身、その一〇〇頁―一〇一頁においては、「刑の時効の制度が設けられた趣旨については、……結局、犯罪に対する社会的な規範感情が時間の経過とともに次第に緩和され、やがて必ずしも現実的な処罰を要求されないまでになることを主眼として考えるべきである」と言つている。

2 さらにまた、相手方の援用する乙号証によるも、刑の時効の立法趣旨については、原決定の言う「一定期間の経過とともに形成された社会的事実関係、長期間継続した事実状態を一つの秩序とみて、この秩序を尊重し、覆えさないことがかえつて社会的安定に資するという、すべての時効制度に共通する理念」(原決定一〇一頁)のほかに、つぎのような諸理念が説かれているのである。

① 乙一六号証(大谷実教授)三〇頁第四段

「刑の時効制度の趣旨からしますと、応報感情を含む社会の規範感情の鎮静化する時期がすなわち時効期間である。」

② 乙一八号証(勝本勘三郎博士)六八四頁―六八六頁

「社会遺忘説 此説ハ或ハ之ヲ遺忘ヲ理由トスル刑罰不必要説トモ云フヘキモノニシテ……要約スレハ……犯罪ノ当時ニ於テハ吾人ノ印象極メテ鮮明、随テ処罰スルノ必要ヲ感スルコト亦甚タ切ナリト雖モ時漸ク犯罪ヲ遠カルニ従ヒ其印象漸ク朦朧、随テ亦ヲ処罰スルノ必要ヲ感スルコト昔日ノ如キニ非ス。必要ナクシテ之ヲ処罰スルハ刑罰ノ本旨ニ反スルカ故ニ避ケサルヘカラスト云フニ在リ。……余ハ之ニ時ノ経過ハ茲ニ又新ナル一定ノ社会関係ヲ馴致スルカ故ニ突然犯人ヲ刑シテ之ヲ撹乱スルトキハ其害却テ処罰セサルヨリモ大ナルモノアルニ由ルトトノ理由ヲ附加セント欲ス。」

③ 乙一九号証(平井彦三郎検事)「社会遺忘説ナリ、日ク、時ノ経過ニ因リ社会ハ犯罪事実及ヒ受刑者ニ対スル憎悪ノ念ヲ忘却ス、即チ犯罪事実ハ時ト共ニ人ノ記憶ヲ去リ、受刑者ニ対スル憎悪ノ念ハ受刑者カ正業ニ従事スルコトノ長キニ準シ同情ノ念ニ変更ス、此ノ時期ニ於テ之ヲ処罰スルハ却テ社会秩序ノ維持ニ害アリト云フニアリ」

④ 乙二一号証(安平政吉氏)

「時効制を認める所以は、時の経過と共に、行為者、被害者、社会一般人の意識裡に、過去を離れて現実に基づく一定の新しい秩序意識を生ぜしめ、そしてこの意識を、ことさらに撹乱しないことが、結局国家社会の平和と秩序とを維持する所以のものと考えられたことによる。」

3 すなわち、刑の時効制度が定められた所以のものには、死刑においては、①判決の確定後、三〇年もたてば、被告人の処罰を求める社会の感情も和らぎ、②また、被害者の被害感情も和らぐので、国家刑罰権がその消滅を来たすという趣旨もあるのである(同旨、団藤重光編「注釈刑法(1)」二四〇頁等)。

そして本件においては、正にそのとおりなのであつて、

① 被害者たちは、今や全く平沢の処罰を望んでいないのみか(過日の新聞報道やテレビ報道によれば、今なお抗告人を真犯人と思つている男性被害者すら、「もう釈放してもいいのではないか」と言つている)、真犯人を目撃した被害者の一人竹内正子さん(旧姓村田さん)は、「犯人は平沢さんではない!」と言つて、現在係属中の再審請求事件(東京高裁第一刑事部昭和五六年(お)第一号再審請求事件)の弁護人側証人として、出廷することを望んでいる。

② さらにまた、平沢氏の処罰を求める社会の感情は、現在ゼロであるのみならず、「平沢貞通氏を救え!」という輿論は、日本国内のみならず、国際的にも、ますます高まつて来ている。

③ したがつて、ここで法務当局が、抗告人にたいする死刑執行を断行したとすれば、日本はもちろん、世界中が蜂の巣をつつついたような大騒ぎになることは必至であり、逆に言えば、抗告人にたいし、今後とも死刑執行をしないことが、今や、社会的安定性を得てしまつたということになるのである。

4 そして、それらのことは、すべて本件において、死刑の時効の立法趣旨として説かれている要件を充足していること、したがつて、本件においては、その点から言つても死刑の時効が完成すべきことを抗告人らが主張したのであつた。

ところが原決定は、その一〇〇頁―一〇五頁において「刑の時効の制度の趣旨」と題し、その立法趣旨の一部分のみをとり上げ、よつて本件について「死刑の時効の進行、成立を認めることは、刑の時効の趣旨にも合致せず、相当とはいえない」(原決定一〇五頁)としながら、さらにそれ以外の立法趣旨との関係について主張した右の点については、そのような「被拘束者に関する個別的、具体的事情は、死刑執行や恩赦の問題に関し、当該事項につき権限を有する者にとり、他の諸般の事情とともにしんしやくされることはあり得るとしても、」あるいは、「現に東京高等裁判所に係属している再審請求手続において判断されるべきもので」あるとしても、「これを以て死刑の時効に関する前記の解釈を左右する根拠とすることは許されない」(原決定一四一頁)として、これらを無視してしまつたのである。

言うならば、相手方から提出された諸学説における刑の立法趣旨の諸点につき、その一部だけをつまみ食いし、その他については頬かむりしてしまつたのである。

5 そして、そのような恣意的な原決定と異なり、「社会と被害者における応報感情の緩和、すなわち社会遺忘という立法趣旨からも、本件については刑の時効が認められるべきである」とするのも、これ亦、大方の学説なのである。

すなわち、

① 甲三号証(浅井清信教授)

② 甲四号証(磯野有秀教授)

③ 甲六号証(粕谷 進教授)

④ 甲七号証(川口 是教授)

⑤ 甲一二号証(茂野隆晴教授)

⑥ 甲一三号証(高瀬暢彦教授)

⑦ 甲二一号証(宮崎鎮雄教授)

⑧ 甲二八号証(沢登佳人教授)

⑨ 甲三四号証(福田敏南教授)

⑩ 甲三五号証(茂野隆晴教授)

⑪ 甲三九号証(難波田春夫教授)

⑫ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑬ 甲四五号証(磯野有秀教授)

⑭ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑮ 甲五五号証(重松明久教授)

⑯ 甲五七号証(戸田武雄教授)

⑰ 甲七二号証(金子 勝教授)

⑱ 甲七四号証(戸田武雄教授)

⑲ 甲七五号証(庭山英雄教授)一二〇頁第三段―一二一頁第一段

九 「死刑を言い渡した確定裁判の執行説」の破錠

なお、ここの九以下にのべることは、すべて原審において、抗告人が「刑の時効の完成する理由」として強く主張したに拘らず、原決定が全くそれにたいする判断を示さなかつた諸論点である。

通常上告であれば、「理由不備」として、それだけで絶対的上告理由となるものである(民訴法三九五条一項六号)。

1 まず、原決定は、「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行であるから、拘置を受けている間は、時効は進行しない」という(原決定九六頁―一〇〇頁)。

2 ところが、「死刑を言い渡した裁判確定」後、逃亡した者を追跡し、捜索し、見つけ出し、逮捕し、監獄に引致しこれに引き渡すことも、また、同じく「死刑の確定裁判の執行」である。

この点につき、相手方は、「逃亡した者を追跡し、見つけ出し、逮捕し、監獄に引致しこれに引き渡すことは、収監状(刑訴法四八五条ないし四八九条)の執行であり、監獄法二三条による逮捕の執行であつて、死刑を言い渡した確定裁判の執行ではない」と言うかもしれない。

しかし、「死刑を言い渡した確定裁判」がないのに、収監状を発付したり、逮捕したりできるわけはないから、収監状の発付ないし逮捕そのものが、やはり「死刑を言い渡した確定裁判の執行」なのである。

そうすると、原決定の説にしたがうと、死刑の確定裁判を受けた後逃亡した者にたいしても、死刑の時効は全く進行しないことになつてしまう。

そうすると、刑法三二条そのものが空文になつてしまうのである。

3 そして抗告人は、このことを原審で、強く主張した(第二回準備書面四頁―五頁、第四回準備書面一五頁―一六頁、第五回準備書面九頁―一一頁)。

ところが原決定では、これにたいする採否の判断を一言もしていないのである。排斥する理由を書けなかつたので、判示しなかつたのである。

4 ちなみに、「逃走中の死刑囚を追跡・捜索することも、死刑確定判決の執行である」ことについては、学説も、そう言つている。

① 甲二八号証(沢登佳人教授)

② 甲四九号証(同教授)

③ 甲七一号証( 〃 )七頁以下

一〇 刑の時効制度の立法趣旨による原決定の説明の破綻

1 前にも触れたように原決定は言う。

「刑の時効の制度」は、「一定期間の経過とともに形成された社会的事実関係、長期間継続した事実状態を一つの秩序とみて、この秩序を尊重し、覆えさないことがかえつて社会的安定に資するという、すべての時効制度に共通する理念」「に基づくものである」(原決定一〇一頁)と。

すなわち、Aという秩序を覆えすことによるデメリットと、Aという秩序を覆えさないことによるデメリットとをはかりにかけ、覆えすことによるデメリットが大きい場合には、本来の法規と矛盾するAという事実上の秩序を尊重するのが時効制度の立法趣旨だというのである。

そして、そのことは、正しい。

しかし、もしそうだとすると、本件の場合、抗告人に時効完成をみとめなかつた場合のデメリットと、逆に時効完成をみとめた場合のデメリットとは、どちらが大きいか。

それは、はるかに、時効完成をみとめない場合のデメリットが大きいのである。

2 すなわち、抗告人にたいし、今後死刑を執行することはもちろん、監獄内拘置をつづけることも、三〇年間逃亡していた死刑囚をめぐつて生じた安定的社会関係・秩序が、その人を拘置し死刑を執行することによつて侵害される不利益よりも、はるかに重大で、はるかに恐るべき不利益ないし反正義をもたらすのである。

なぜならば、第一に、抗告人の場合は、死の恐怖下のこれまでの三〇年間の拘禁により、すでに必要にして十分な程度を超えた重すぎる応報がなされずみであり、そのこと自体、すでに正義に反している(加賀乙彦教誨師の甲七〇号証)。

その反正義に加えて、さらに応報・社会防衛、いずれの意味も必要も失なつた死を(それはもはや死刑ではない)、しかも九三才の老人に与えるに至つては、非人道のきわみであり、古今未曽有・東西絶無の残虐刑と言うの外はない。

第二に、そこで法務大臣も、これから死刑にすることはいくら何でもできないから、死刑に処する気は毛頭ないまま(嶋崎法務大臣答弁の甲六七号証七頁第四段)、抗告人が自然に死ぬまで拘置をつづけるとすれば、その時から抗告人の拘置は、権限のない不法の拘禁となり、犯罪となる。

なぜならば、原決定自身にのべている如く、抗告人の拘置は「死刑を言い渡した確定裁判自体の効力として執行される」(原決定九九頁)ものであり、抗告人は「死刑執行を受けるべき者として隔離されてきた者」(同一〇四頁)である以上、死刑の執行を行ないえなくなつた段階で、拘置権は立ちどころに消滅するはずだからである。

かくて拘置権が消滅したにもかかわらず、国家権力が九三才の老人を自然死に至るまで不法に拘禁することが、非人道的でなく人権侵害でないとしたら、いつたい何が非人道的であり、何が人権侵害になるのだろうか。

3 以上の諸理由により、今後、抗告人にたいして死刑を執行することまたは自然死に至るまで拘置をつづけることは、正義と人道と人権と文明と人類の良心にたいする、古今未曽有の反逆・裏切り・侵害であり、わが刑事司法の歴史を、永遠に拭いえない悪業によつて汚し、全世界・全後世のそしりと軽蔑の下におくことになる。

この重大な利益侵害に比べれば、原決定の説くような、逃亡死刑囚をめぐつて三〇年間に生じた安定的社会関係・秩序侵害の不利益のごときは、殆んど取るに足りぬものである。

法は、そのような小さな利益侵害をすら防止するために、死刑の執行とそのための拘置を免除するのだ。ましてかくの如き重大きわまりない利益の侵害を防止するために、死刑の執行とそのための拘置を免除しないことがあろうか。

4 これを要するに、執行機関の心中では、もはや死刑を執行するつもりはないのに、名目上はあくまで「死刑の確定裁判の執行」として抗告人平沢に死の恐怖を与えつづけながら拘束を行なうという詐欺的な拘禁である点において、それは前記の非人道性・人権侵害・残虐性の上に、さらに欺瞞性と、抗告人の恐怖心を執行機関の恣意がもてあそぶサディズムの悪徳とをつけ加えた、悪魔的な迫害である。

5 そして抗告人は、このようなメリット・デメリットの比較較量にかんする時効制度の立法趣旨にもとづく事実主張をも原審で強く出した(抗告人の第二回準備書面五頁―一二頁)。

ところが原決定では、これにたいする判断も、全くしていない。これまた、排斥する理由を書けなかつたがために、判示できなかつたものと思われる。

6 そして、この利益・不利益較量論にたいする抗告人の理論も、多くの学説によつて支持されているのである。

すなわち、

① 甲二八号証(沢登佳人教授)

② 甲三三号証(重松明久教授)

③ 甲三八号証(戸田武雄教授)

④ 甲五三号証(田畑 忍教授)

一一 法務省の二枚舌に屈した原決定

1 さらに原決定は、抗告人のつぎの重大な主張にも返事をしていない。

すなわち、免田事件、財田川事件、松山事件において、それぞれの裁判所が再審開始決定と同時に「死刑の執行停止決定」を下したさい、「死刑の執行が停止されたのだから、拘置の執行も停止されたことになり、したがつて死刑囚の身柄を釈放すべきではないのか」ということが問題とされたとき、法務側はつぎのように言つた。

① 免田事件の再審開始決定当時、熊本地裁八代支部に提出された昭和五六年四月一八日付、熊本地方検察庁八代支部作成の「意見書」判例時報一〇〇四号三九頁

「再審被告人免田栄は、同人に対して死刑を言渡した原確定判決の確定後、死刑の執行すなわち絞首による刑の執行のため監獄に拘置されてきたものである(刑法一一条一項・二項)が、福岡高等裁判所による再審開始決定の際に告知された死刑の執行停止決定によつて、その時以後現在に至るまで、死刑の執行すなわち絞首の執行は停止されたものの、刑法一一条二項の規定により依然として拘置を継続されているものに外ならないのである。

右拘置の法的性格は、刑の執行ではない死刑執行のための独特の拘禁であり、裁判所が刑訴法四四八条二項に基づきその裁量によつて刑の執行停止決定をなすとしても、その刑とは死刑すなわち絞首の執行を停止することができるにとどまり、刑の執行ではない拘置そのものを停止することは法律上許容されないものといわなければならない。」

② 昭和五八・五・一八の法務省刑事局長前田宏の答弁(乙七号証)

「(昭和五六年六月五日の)熊本地裁八代支部の見解でも、私が申し上げたと同様な見解を示しているわけでございます。」

そして、前田局長と「同様な見解」という熊本地裁八代支部の見解は、つぎのとおりである(判例時報一〇〇五号三六頁)。

「死刑の執行とは絞首を意味し、拘置は死刑の執行の一部とは解し得ないこと、文理上疑いない。現行法、拘置は刑の執行ではない」と。

③ 昭和五八・八・一〇の法務省刑事局長前田宏の答弁(乙九号証)

「稲葉誠一委員

死刑の執行を停止するということになれば、それが主で、それに伴う拘置というのは従の要素的に考えられるわけですから、当然主たるものの執行が停止されれば、そのときに従たるものの執行も停止されていい。そうなれば、死刑の執行を停止したということになれば、それに伴うところの拘置も、当然停止してもいいということになつて来るんじやないでしようか。

前田宏説明員

私どもといたしましては、再審開始決定が確定したら直ちに釈放すべきものだというふうには考えておりませんし、また、いわゆる主従の関係に当然なるものというふうにも、考えていないわけでございます。」

④ 昭和五八・八・一一の法務省刑事局長前田宏の答弁(乙一〇号証)「刑の執行停止をすれば当然に拘置の停止をされるのだという考え方が一方にございます。しかし、それはやはり適当ではないので、本来的には刑そのものの執行停止を意味するであろうと思いますけれども、場合によつては、この刑の執行停止という規定を根拠にして拘置の執行停止も行ない得るというふうに解することは、許されることではないかというふうに考えた次第でございます。」

2 いろいろと廻りくどく言つているけれども、要するに昭和五六年以後、一連の再審開始決定のさいに各裁判所によつて「死刑を言い渡した確定裁判の執行停止決定」がなされたのにたいし、「死刑の執行は停止されたけれども、拘置の執行は停止されていない。だから、死刑囚を釈放しないのだ」という意味である。

すなわち、「死刑を言い渡した確定裁判の執行と拘置の執行は別のことだ」と言つていたのである。

3 ところが今回の平沢事件になると、刑法三二条に「時効ハ死刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内其執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス」とある「其執行」を、条文にはない「死刑を言い渡した確定裁判の執行にして、死刑の執行と拘置の執行を含む」という勝手な読み方をし、「死刑を言い渡した確定裁判の執行には拘置を含む」と言う言い方をして来たのである(原審の答弁書一一頁―一四頁)。

これが二枚舌でなくて何であろうか。

とにかく法務省という兇暴なる国家権力にとつては、或る死刑囚を釈放しないために「AとBは別だ」と言つた方がいいときには「AとBは別だ」と言い、逆に他の死刑囚を同じく釈放しないために「AにBが含まれる」と言つた方がいいときには、平気で「AにBが含まれる」と言うのである。

そこには、衰れな一人の人間の生命と身体の自由を守つてやろうという人間らしい気持は微塵もなく、あるものは「おかみに楯つくやつは、人間として認めない」という、権力の化け物的冷酷・非情さ以外の何ものでもない。

4 ところが、その法務省の二枚舌にたいし、原審は知つててその一枚の方の舌を選んだのか、あるいはよく分らなくて一枚の方の舌を取つたのか分らないが、免田・財田川・松山事件における法務省の主張およびそれと同旨の判例(熊本地裁八代支部合議部昭和五六・六・五見解〔免田事件〕判例時報一〇〇五号三六頁および仙台地裁刑事第二部合議係昭和五九・三・六見解〔松山事件〕判例時報一一一五号八八頁)を無視し、法務省のあとの方の舌を採つて、つぎのように判示してしまつたのである(原決定九七頁―一一三頁)。

「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされている」

「拘置は、死刑を言い渡した確定裁判自体の効力として執行されるもので」

「拘置手続は、以上のような性質のものであり、死刑を言い渡した裁判が確定したことにより、その裁判の執行としてなされるものである。」

「死刑の執行に至るまでの拘置の性質は、死刑を言い渡した確定裁判の執行として、死刑の執行手続の一環として拘禁されているのであつて」

「死刑執行に至るまでの拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行として、死刑執行手続の一環をなすものである」「法は、死刑の時効の制度においては、拘置を死刑の執行と同視している」

5 そして、抗告人は、法務省のその二枚舌を、原審で、強くかつ詳しく攻撃してきた(人身保護請求書六三頁―七三頁、第一回準備書面二一頁、第三回準備書面一六頁―二四頁)。

ところがそれにたいしても、原決定は、イエスでもなければノーでもなしに、一言も返事をしていない。

大事な問題につき、主張をしたことにたいし、返事もされないで殺されて行くのでは、抗告人は、化けて出るしかない。

6 そして、「死刑を言い渡した確定裁判の執行と拘置の執行とにかんする法務省の二枚舌」についても、日本国中の法学者が、一致して攻撃しているところである。

すなわち、

① 甲二九号証(庭山英雄教授)

② 甲四〇号証(粕谷 進教授)

③ 甲四五号証(磯野有秀教授)

④ 甲五二号証(斉藤信宰助教授)

三 刑法三二条一号の空文化

原決定によると、刑法三二条一号が適用されるのは、法務省の言うように、死刑囚が逃げた場合だけになる。

1 ところが現行刑法が公布された明治四〇年以来、本日現在に至るまで、確定死刑囚が逃亡したという事件は、皆無であり、また、物的・人的設備がますます完備され、かつ一〇〇%管理されている現在の拘置所ないし刑務所において、確定死刑囚が逃亡するということは、今後においても、まず考えられないことである。

すなわち、原決定の見解は、殆んどありえないことを前提として、刑法三二条一号の適用範囲を論じているものであつて、事実上、同条の存在を無にするものと言つてよい。

逆に刑法三二条一号の存在を意味あるものとして解するとすれば、それはまさに、拘置中の者につき三〇年経過したときに適用されるものと見なければならないことになるのである。

2 そしてこのことも、抗告人は、原審で、必死に主張してきた(第三回準備書面八七頁、第五回準備書面二一頁―二二頁)。

ところが原決定は、これにたいしても、一言も返事をしてくれないのである。

そしてこの点の返事も聞かないままに殺されて行くことは、抗告人平沢としては、甚だ「念が残る」のである。

3 そして、「現在においては、刑法三二条一号は、むしろ拘置されている死刑囚を適用対象とした規定となつている」とすることは、学説にもなつているのである。

すなわち、

① 甲三二号証(田畑 忍教授)

② 甲五二号証(斉藤信宰助教授)

一三 第一点のむすび

以上のとおり、本件抗告人平沢氏にたいする死刑は、昭和六〇年五月六日と七日の間のまよ中の一二時をもつて、刑の時効が完成してしまつているのである。

したがつて、同年五月七日以後の拘禁は、「法律の定める手続によらな」い自由の侵奪(憲法三一条)であり、かつ「正当な理由がな」い拘禁となつている(同法三四条前段)。

したがつて、その拘禁を是認した原決定は、憲法三一条・三四条に違背するものである。

第二点 原決定には憲法三六条・三一条(罪刑法定主義)の解釈の誤りおよび同条の違背がある。

一 原決定は、まずつぎのように言う(原決定一二三頁)。

「死刑の確定裁判を受けた者がその執行を前提として三〇年を超える期間身柄を拘置されたからといつて、それだけで死刑の時効の完成を認めなければ憲法三六条所定の残虐刑の禁止に触れるということにはならない」と。

そして、原決定は、本件につき、拘置がすでに三〇年以上たつてしまつた理由として、一七回の再審と五回の恩赦出願を挙げている(一二四頁)。

1 ところで抗告人らが、残虐刑と言つているのは、それを言つているのではない。

これまで三〇年間、相手方が抗告人平沢氏を殺さないで拘置してきたことは、そのまま認めよう。

しかし、相手方は、抗告人の度重なる再審請求にも拘らず、ただの一回も刑訴法四四二条但書によつて「刑の執行停止」をしなかつた。

もし、刑の執行停止をしていれば、一方においては死刑の時効が停止され(刑法三三条)、他方においては抗告人平沢氏に安心して再審請求をする条件を与えるという一石二鳥の効果がえられたのに、検察官は、ただの一回も刑の執行停止をせず、過去三〇年と一カ月、「今日は殺すぞ、今日は殺すぞ」とおどかしつづけてきたのである。

そして、原審で抗告人から相手方に明確に釈明を求めた(原審の第三回準備書面五九頁)に拘らず、いまだに相手方がその求釈明に答えていない問題につぎの問題がある(したがつてこれは、原審裁判官の釈明権不行使、すなわち求釈明義務違反の問題でもある)。

すなわち、「拘束者たる法務大臣は、本日以後、平沢氏を殺すのか、殺さないのか!」ということである。

2 もし、「殺す」というのであれば、過去三〇年、「今日は殺すぞ、今日は殺すぞ」と平沢氏を死の恐怖でいたぶり続けながら、たとえば三〇年と一カ月たつた今日殺すとすれば、これを全体として眺めた場合、「残虐な刑罰」でなくて何であろうか。

作家・精神科医の加賀乙彦氏は言つている(甲七〇号証)。

「死刑囚というと、人は死刑執行時の恐怖のみを考えがちである。しかし、死刑囚にとつて最大の苦痛は、死を待つ長い年月にあるのであつて、長年月のあいだ狭く息の詰まる独居房で死を待ち続けることこそが、真の苦痛なのである。しかも、平沢貞通は、三十年間、毎日その苦痛を味わい続けてきたのだ。これほど人間をおとしめ、苦しめた残虐が、文明国を自認するわれわれの国でおこなわれていることに、私は驚きと憤りを覚えずにはおれない」と。

もちろん、原決定は、「それは抗告人が何回も再審請求をしたからだ」と言うだろう。

しかし甲四九号証(沢登佳人教授)が言われるように、「仮りに人道上の配慮のみが原因だつたとしても、原因の正当性が結果の不当性を治癒することはできない。人道的配慮が、その結果生じた死の恐怖下の三〇年の拘禁に加えて挙句の果ての死刑の残虐性・非道性を減殺することはできない」のである。

3 そして、「死の恐怖の下の三〇年の拘禁に加えて、その後に殺すことが残虐刑に当たり、違憲となること」は、学界の通説である。

すなわち、

① 甲七号証(川口 是教授)

② 甲一五号証(田畑 忍教授)

③ 甲一七号証(沼田稲次郎教授)

④ 甲一九号証(藤井紀雄教授)

⑤ 甲二二号証(砂田卓士教授)三八頁

⑥ 甲二八号証(沢登佳人教授)

⑦ 甲三二号証(田畑 忍教授)

⑧ 甲三四号証(福田敏南教授)

⑨ 甲四〇号証(粕谷 進教授)

⑩ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑪ 甲四五号証(磯野有秀教授)

⑫ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑬ 甲五一号証(佐藤昭夫教授)

⑭ 甲五三号証(田畑 忍教授)

⑮ 甲四六号証(鵜沢義行教授)

⑯ 甲四八号証(福島新吾教授)

4 そしてこの点につき原決定は、「三〇年間の身柄拘置を経た上で死刑執行命令を発することが妥当かどうかの問題はあるとしても、それは、法務大臣が諸般の事情を総合的に考察した上でその権限と職責において決することである」(原決定一二三頁)として、今後、法務大臣が抗告人を殺すことを容認しているから、その点において原決定は、まさに憲法三六条の厳禁する「残虐刑」をみとめたことになり、違憲の決定となる。

5 さらに又、これから殺すとなれば、それは、「死の恐怖のもとの禁固三〇年プラス死刑」となつてしまう。

ところが、三〇年前に確定した判決は、死刑のみであつて、「プラス死の恐怖の下の禁固三〇年」は、ないのである。

そしてこの点につき、原決定は言う(一二八頁―一二九頁)。「死刑の執行がそれに至るまでの身柄の拘置を必然的な付随的前置手続として予定していること、及び死刑執行命令を発するかどうか、発するとして何時発するかは、諸般の事情を総合的に考慮した上で決せられることであつて、その結果身柄の拘置が長期間にわたつたとしても、それだけで直ちに不当とはいえないことからすれば、死刑執行を前提とした身柄の拘置が三〇年を超えて継続したからといつて、裁判で言い渡した刑以外の刑を執行したことになるものではなく、また、罪刑法定主義に反するものでもないことは明らかである」と。

しかし、ここでも、前記(甲四九号証)のように、仮りに「諸般の事情を総合的に考察した」ためにそうなつたのだとしても、原因の正当性が結果の不当性を治癒することはできないのであつて、設般の事情を総合的に考察した配慮が、その結果生じた死の恐怖下の三〇年の禁固プラス死刑という、判決の命じた刑以上の刑を科することになるという結果の違憲性を減殺することは断じてできないのである。

かくして、原決定は、罪刑法定主義ないし刑罰裁判主義をさだめた憲法三一条に違反する執行を容認した点においても、違憲である。

6 このように、「諸般の事情を考察した結果でも、死の恐怖下の禁固三〇年プラス死刑は違憲である」とする説もまた、学界の多数説である。

すなわち、

○ 甲二〇号証の一、二(ホセ・ヨンパルト教授)

7 逆に、「今後は殺さない」というのであれば、本日以後の拘置は、刑法一一条二項に言う「拘置」の目的を失なつた拘禁となり、その日以後は同条項が適用されなくなり、したがつてその日以後の拘禁は、違法となる。

ちなみに、昭和六〇年四月三日、参議院法務委員会において、嶋崎均法務大臣は、飯田忠雄議員のつぎの質問にたいし、つぎのように、答弁している(甲六七号証)。

「飯田忠雄君

法務大臣としては今の段階では従来のような方式をおとりになつて、強いて(平沢貞通の…遠藤誠註)死刑の執行命令をお出しになるというお気持ちはないと受け取つてよろしゆうございますか。

嶋崎均国務大臣

結論から申し上げますと、御指摘のようなことであろうというふうに思つておるわけでございます。」

8 そして、「法務大臣が死刑執行の意思をなくしたトタンに、刑法一一条二項が適用されなくなること」も、学界の多数説である。

すなわち、

① 甲二八号証(沢登佳人教授)

② 甲四〇号証(粕谷 進教授)

③ 甲四九号証(沢登佳人教授)

9 さらに第三のパターンとして、法務省は、「今後、内心は殺すつもりがないのだけれども、表向きは『死刑ノ執行ニ至ルマテ拘置ス』るのだ」と言うとしよう。

もしそうだとすれば、それは、前にも言つたように、非人道性・人権侵害・残虐性の上に、さらに欺瞞性と、抗告人平沢氏の恐怖心を執行機関の恣意がもてあそぶサディズムの悪徳と嗜虐趣味をつけ加えた、悪魔による迫害であつて、とうてい憲法三一条に言う「法律の定める手続」と言えるものではない。

かくして、原決定がそのような今後の拘置をみとめたとすれば、それは、憲法三一条にたいする真向からの反逆である。

10 そしてそのような面従腹背的拘置が違法・違憲であることも、学説となつている。

○ 甲二八号証(沢登佳人教授)

11 これを要するに抗告人としては、法務大臣がこれまで三〇年間抗告人を拘置してきたことを違憲・違法と言つているのではなくて、これまでの死の恐怖の下の三〇年の禁固に加えて、①これから殺す場合、②これから殺さない場合、③表向きは殺すと言つて内心は殺さないという場合、昭和三〇年五月七日からそのときまでの全体をひつくるめて、違憲・違法と言つているのであつて、原決定は、この点を、完全に取りちがえている。

二 さらに原決定は、心なきマスコミのデマに影響され、つぎのようなことを親切にも心配しておられる(原決定一二六頁―一二八頁)。

「請求者らの主張するように、死刑の確定裁判を受けた者が死刑の執行を前提として身柄を拘置されている場合にも死刑の時効が進行すると解するならば、法務大臣としては、特段の事由のない限り、時効完成前に死刑を執行すべきものであろうから、死刑執行命令を発するか否かを決するにつき、諸般の事情を総合してする裁量権の行使に関し、場合によつては相当の制約を受けることになり、全体としては、死刑の執行を促進する結果を生ずる可能性もあると考えられないではない。さらに、もしこのようになれば、死刑の執行をすべきかどうかを判断するに当たつては、再審の請求がされているかどうかもしんしやくする事情の一つであるところ、無実を主張する者が再審開始のための要件をみたし得る可能性があるにもかかわらず、現にみたすには至つていない場合にも死刑を執行せざるを得ない場合が出て来る可能性もある。再審の請求がされている場合は執行の停止をすればよいのであるから、そのような心配をする必要はないとする考えもあるかも知れないが、法務大臣において直ちに死刑執行をすることに問題があると考えることがあり得るすべての場合において再審の請求がされているとは限らないし、仮に再審の請求がされているとしても、常に執行を停止する取扱いとするときは、受刑者がこれを乱用して死刑の執行を免れようとすることになる恐れもあるから、執行停止の方法があるからといつて前述した不都合が解消するともいえない」と。

1 ところでそれは、まつたくの杞憂なのである。

というのは、確定死刑囚については、無実の罪で死刑が確定している場合と、有実の罪で死刑が確定している場合との二つしかない。

そして、無実の罪で死刑が確定してしまつた場合、当然、元被告から再審請求が出されるはずである。そして、法務省が「再審請求を三〇年間続けられることによつて、死刑の時効が完成するのではたまらない」と言うのであれば、即刻、原決定も触れているように、刑訴法四四二条但書によつて、検察官の手により、「死刑の執行停止」をすればよいだけである。

そして、その「刑の執行停止」をすれば、あとは刑法三三条により、「時効ハ法令ニ依リ執行……ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」、すなわち「刑の時効の停止」となり、以後、刑の時効は進行しないことになるのである。

そして、この点が重要なのである。すなわち、検察官によつて死刑の執行が停止されれば、その間は死刑囚にとつても死の恐怖が全くなくなるから、その間は刑の時効を停止してもいいのであるが、抗告人のように、過去三〇年間、何ら死刑の執行停止を受けていない場合には、毎日毎日、死の恐怖の下に拘置されつづけるのであり、したがつて、その間は、刑の時効が進行するものとしないと、彼此、均衡が全く取れなくなつてしまうのである。

ところが相手方は、過去三〇年の間において、抗告人からの再審請求にもとづき、いつでも刑訴法四四二条但書による死刑の執行停止により刑の時効を停止させると同時に、その間抗告人にたいし安心をさせることが、一挙手一投足の労でできたにもかかわらず、かたくなにそれもせず、毎日毎日平沢氏を死の恐怖の下にとじこめておきながら、今ここで時効完成をみとめると、「死刑の執行を促進する結果を生ずる可能性」があるから、本件については死刑の時効をみとめられないのだと、裁判所に言わせているのである。

又逆に、有実の罪で確定死刑囚となつた場合、これにたいする死刑の執行を早めることになるかどうかは、本件とは全く関係がない。

もつとも、死刑廃止論の立場から言えば、その場合でも、死刑の執行をすべきではないことになる(例えば、相手方提出の奥平康弘教授の立場……乙一五号証)。

しかし、それは立法論であつて、解釈論ではない。現行刑法が死刑の制度を認めている以上、有実の罪で死刑が確定し、したがつて何ら再審の請求もしていない者にたいし、死刑の執行が早められるとしても、それは、現行法上、いかんともしがたいことなのである。

2 ところで原決定は、抗告人の右の主張にたいして、前記のように答えてこれをはねているのであるが、どうもこれをはねた理由が甚だオソマツなのである。

① まず原決定は言う。

「無実を主張する者が再審開始のための要件をみたし得る可能性があるにもかかわらず、現にみたすには至つていない場合にも死刑を執行せざるを得ない場合が出て来る可能性がある」と。

ところで、コトは、三〇年の経過が近づいて来たときのことなのである。三〇年もかけて、「再審開始のための要件をみたし得る可能性があるにもかかわらず、現にみたすには至つていない場合」とは、いつたいどういう場合なのか。

再審開始のための要件をみたし得る可能性があれば、三〇年もたたないうちに、すでにそれは「現にみたすに至つている」はずである。

さらに又、ここが大事なところであるが、刑訴法四四二条但書の検察官による執行停止は、再審の請求さえあればでき、再審開始決定の出る前でもできることである(通説。ここが刑訴法四四八条二項とちがう)。

したがつて、再審の請求をされたときに、検察官が、「再審開始のための要件をみたし得る可能性があるにもかかわらず、現にみたすには至つていない」と判断したら、即時、刑の執行を停止して、同時に刑の時効も停止させればよいだけだし、逆にその可能性は皆無であると判断したら、刑の執行を停止して同時に刑の時効も停止させるか、あるいは刑の執行を停止しないで刑の時効を進行させるかは、正にそのときの検察官の裁量にゆだねられているのである。

すなわち、再審請求をくり返す死刑囚を、三〇年の間だけ死の恐怖でいたぶり続けるか、それとも再審請求事件係属の期間を安心して生活させるかは、検察官の胸一つということになるのである。再審事件係属中も死の恐怖を与え続けて時効の不利を甘受するか、それとも時効を防ぐかわりに死刑の執行を停止して囚人をその間安心させるか、その二者択一を検察官に迫つているのが刑訴法四四二条但書なのである(甲七九号証の原決定にたいする沢登批判)。

② さらにまた原決定は言う。

「法務大臣において直ちに死刑執行をすることに問題があると考えることがあり得るすべての場合において再審の請求がされているとは限らない」と。

いつたい、何を言つているのか、わからない。再審請求もしていない死刑囚につき、死刑執行をすることに問題があるという場合は、死刑制度をみとめている現行法上は皆無である。

恩赦出願のことが考えられるが、問題は、死刑確定後二九年一一ヵ月もたつた後のことである。何を考えることがあるのであろうか。

ちなみに、再審請求のなされていない事件で死刑確定から執行までの期間は統計上約五、六年であり、二〇年をこえるものは、皆無なのである。

③ さらに原決定は言う。

「仮に再審の請求がされているとしても、常に執行を停止する取扱いをするときは、受刑者がこれを乱用して死刑の執行を免れようとすることになる恐れもある」と。

抗告人は、何も「再審の請求がされたら、常に執行を停止する取扱いとせよ」と言つているわけではない。右にものべたように、再審の請求がなされたら、執行を停止しないで三〇年間だけその死刑囚を死の恐怖でいたぶり続けるか、それともその再審請求事件の係属中は刑の執行を停止して死刑囚を安心して生活させるかわりに時効も停止させるか、言いかえれば、死の恐怖を与え続けて時効の不利益を甘受するか、時効を防ぐかわりに刑の執行を停止して囚人を安心させるか、その二者択一を検察官に委ねているのが、刑訴法四四二条但書なのである。

したがつて、原決定が言うような、「受刑者が再審の請求を乱用して死刑の執行を免れようとする」ときは、検察官の判断において、もしそれが本当に乱用というのであれば執行を停止しないで時効完成前に死刑の執行をするか、又は乱用であるかどうかがはつきりしないというのであれば執行を停止して時効の進行も止めるかは、ケース・バイ・ケースで検察官が判断をすればよいだけである。

いずれにしろ、確定後三〇年近く経つた場合にだけ問題になることであるから、そうそうしよつ中おこることではない、稀有の場合だけである。

3 そして、そのような観点から、「本件につき時効をみとめても、決して無実の死刑囚につき死刑の執行を速めることにはならない」とするのも、学界の多くの説なのである。

すなわち、

① 甲七六号証(庭山英雄教授)

② 甲七九号証(沢登佳人教授)

4 したがつて、原決定が心配していることもすべて杞憂であつて、要するに刑訴法四四二条但書の運用よろしきを得れば、無実の罪の死刑囚に対して死刑の執行を促進する可能性などは、まつたくゼロとなるのである。

問題は、明治四一年の日本国刑法施行以来、現在に至るまで、どんなにまともな理由にもとづく再審請求をしても、再審開始決定にならない限り、絶対に刑訴法四四二条但書による執行停止をしようとしなかつた日本国検察官のかたくなさ・官僚意識・アンチヒューマニズムにあるのであつて、そのような、確定死刑囚を人間とは思わないおそるべき法務官僚の冷血動物的性格によつて起きている「不都合」(原決定一二八頁)の尻ぬぐいをするために、「三〇年拘置されても時効は完成しない」という結論をむりやりでつち上げ、結局はその尻ぬぐいを死刑囚の方に押しつけられたのでは、殺されて行く死刑囚としては、たまつたものではないのである。

したがつて、いかにも他の確定死刑囚の身を慮つているかのような口ぶりをもらしている原決定の本質は、実は法務官僚の非人間性を隠蔽しこれを免罪してやるために、本来なら釈放されるべき死刑囚を「殺せ」と言つている点において、これ亦、冷血動物的法務官僚に負けず劣らずの冷血動物的決定なのである。

三 第二点のまとめ

かくして原決定は、憲法三六条の「残虐な刑罰」を容認し、そうでないとすれば、判決のみとめた刑以上の刑を執行することを可能ならしめる点において憲法三一条に違反し、逆に法務大臣が今後死刑を執行しないことを前提とした判断に立つているとすれば憲法三一条の「法定手続」によらざる自由の侵奪を容認している点においてやはり憲法三一条に違反し、いずれにしても、憲法違反の壁にぶつかつてしまうのである。

第三点 さらに原決定は、憲法一四条一項(法の下の平等)の解釈を誤つたか、または同条同項に違背している。

一 すなわち、原決定は、「逃亡者との均衡」と題して、「たしかに、死刑の裁判が確定した後に逃走して自由を享受して来た者について時効の完成が認められるのに、確定後身柄を拘束されて行動の自由を束縛され、死の恐怖のもとに三〇年間を過ごして来た者について時効の成立が認められないことについては、不公平との印象を与える面があることは否定できない」として、逃走者と被拘置者との間の不平等を是認しながら、結局は、つぎのように判示するのである(原決定一一四頁―一一七頁)。

「しかしながらこのことは、刑の時効の制度から不可避的に生ずる結果である。……例えば、懲役刑、禁錮刑等の自由刑についての時効の場合において、刑を言い渡した裁判の確定後巧みに逃走して刑の執行を免れた者は、その間自由を享受しながら時効時間の経過によつて刑の執行の免除の利益を受けられるのに対して、裁判確定後その執行を受けている者は、日夜牢獄につながれて辛酸をなめながら、遂に時効の利益を受けないままに終るのであつて、実質的に見れば、その間の不公平な否定すべくもない。しかし、それにもかかわらず、法が刑の時効を認めるのは、長期間刑の執行を受けない状態が継続したことによつて生じた社会規範感情の緩和や、社会的関係の安定への配慮に基づくものであつて、刑の時効を認めることの反倫理的な面、時効の利益を享受できない者との間の相対的な不公平さは、そもそも、刑の時効に内在する性質なのである」と。

1 ところで原決定が、許される「不公平」の例として挙げている逃亡自由刑犯にたいする受執行自由刑犯は、正に自由刑という刑の執行を受けているのである。

ところが、原決定自身(九九頁)が、「生命刑たる死刑という刑罰の執行行為としてはあくまでも監獄内での絞首を意味するものであつて、それに至るまでの監獄内での拘置は、固有の意味での刑罰ではない」と明言しているように、拘置は、刑の執行ではないのである。

そして、死刑の執行を受けていない点においては、拘置囚と逃走囚とは全くその地位を同じくしているのである(これにたいし、懲役刑・禁錮刑の執行を受けているという点においては、受刑自由刑囚と、逃走自由刑囚とは、全くその地位を異にしているのである)。

したがつて、逃走自由刑囚と受刑自由刑囚との間の不公平を引合いに出しても、逃走死刑囚と拘置死刑囚との間の不公平を弁護する何らの例証にもならないのである。

2 むしろ逃走死刑囚と拘置死刑囚との差異を論ずるのであれば、法に背いて逃亡し、その間自由を享受していた者に対してさえ、刑法は死刑の執行を免除するという恩典を与えているのだから、法に従つて三〇年間自由を拘束される苦痛を忍受して来た者に対しては、もちろん、死刑の執行を免除する恩典を与えなければならないことになるのである。

象が通つてよい道なら、もちろん馬も通つてよいというのと同じ理屈なのである。もし恩恵を与えなければ、不平等どころか、象は通つてもよいが馬は通つてはいけないというのと同様、話が全く逆であつて、正義と憲法一四条に定める法の下の平等とに対する重大な侵犯となる。

3 換言すれば、原決定の言う死刑の時効の制度は、いわば法の禁止を二重に破つた者に認められる制度であるということになる。けだし、前に法を破つて確定判決を受けながら、さらに逃亡という形でまた法の禁止を破つた者に認められるものだからである。

ところが、拘置死刑囚は、たとえ確定判決の言うように死刑にあたいする犯罪を犯していたとしても、さらに逃亡という形で再び犯罪を犯すことがなかつたのである。それは、逃亡した者に比べると、きわめて明らかに法を遵守したことを意味する。

ところが原決定によれば、拘置死刑囚は、忠実に法を守つたという事実によつて、死刑の時効制度を適用されず、「だから釈放はできない」と言われているのである。もし仮りに抗告人が、確定判決を受けて間もない時点で逃亡していたら、死刑の時効制度が適用され、すでに逮捕されることはなくなつていたはずなのにである。

昭和三〇年五月七日、二人の死刑が確定したとしよう。その夜A死刑囚は逃亡した。そしてB死刑囚は残つた。そして本日(昭和六〇年六月九日)、A死刑囚が現れた。

ところが、原決定によれば、Aを殺すことはできず、Bだけが殺されて行くのである。

こうしてみると、原決定の言い分は、疑いなく立法の精神に反すると言わなければならない。

4 原決定の出た数日後、朝日新聞朝刊のマンガ「フジ三太郎」は言つた。「本件決定は、脱獄をすすめる決定である」と。

正に本質を衝いている。

二 ところで原決定は、その、逃走懲役囚と受刑懲役囚という、比較にならない比較を持つて来る枕ことばとして、つぎのように言つている(原決定一一四頁)。

「時効制度というものは、一般に、法の期待する真にあるべき事実状態に反する事実状態が一定期間継続したときには、敢えてそれを一つの秩序として法も尊重するという考え方に基づくものであつて、そこで認知される状態は、本来は真にあるべき状態に反するものである」と。

正に、そのとおりなのである。

ところで本件において、「過去三〇年間継続した事実状態」は何であつたか。法が抗告人を「殺せ」と期待していたのに、歴代の法務大臣三三名(これは観音さまの数と同じ数である)が、すべて抗告人を殺さなかつたという「事実状態」である。

そうだとすれば、今、「一つの秩序として法が尊重すべき秩序」は、今後とも、「殺さない」という秩序である(「今後とも死刑執行を受くべき者として継続する」という言い方は、原決定自身がそこで否定している「法の期待する真にあるべき事実状態」の方に着目した言い方であつて、そのような「真にあるべき事実状態に反する事実状態」がこれからの秩序になるというのであるから、「今後とも死刑執行を受くべき者」という言い方は、自己矛盾である)。

そうすると、抗告人は、今後とも、殺されないのである。

ところが刑法一一条二項によると、「これから殺す者のみを拘置することができる」のである。そうすると、もはや死刑の執行をすることができなくなつた者にたいしては、トタンに同法同条同項が適用されなくなり、したがつて拘禁は違法となつてしまうのである。

三 ところで原決定は、ここでも論理学上の初歩的なミスを犯している。

すなわち前にも摘示したように、原決定はまずその理由冒頭(九六頁―九八頁)において、つぎのように言つている。「刑法三二条にいう『其執行』とは、請求者らが主張するように、その前の名詞である『刑』の執行の意味であると解釈することも文理上は可能といえよう。

しかし、……『其執行』とは、……死刑を言い渡した確定裁判の執行を意味すると解することも文理上十分可能である。そして、この後者の解釈を本件に当てはめてみると、……拘置は、死刑を言い渡した確定裁判の執行としてなされているのであるから、この拘置がなされている限り、時効の成立要件に当らず時効はそもそも進行していないこととなる。そうして当裁判所は、後述するような刑の時効制度の趣旨……その他の点から考えるとこのように解釈せざるを得ないと考える」と。

ところが、その「後述」の「逃亡者との均衡」という見出し中の刑の時効制度の趣旨にかんする原決定一一六頁をみると、つぎのようになるのである。「法が死刑執行のために身柄を拘置されている者に死刑の時効の進行を認めない趣旨であると解すべきことが前述のとおりである以上、死刑の裁判確定後に逃走した者との間に生ずる不均衡は、刑の時効の制度が本来已むを得ないものとして予定しているところであつて、もし、敢えてこれを否定しようとするならば、制度自体の否定につながることになろう」と。

1 すなわち、前述では、「Aである。そしてその理由は後述のBである」と言い、そして後述では、「Bである。その理由は前述のAである」と言つているのである。

すなわち、循環論法である。

そして人間一人が、循環論法で殺されては、たまらないのである。

2 なお、そこで原決定が、「もし、敢えてこれ(逃走者との不均衡の容認)を否定しようとするならば、時効制度自体の否定につながることになろう」とミエを切つているが、時効制度自体を否定しようとしているのは、原決定の方である。

すなわち、前にも述べたように、現行刑法の施行以来、確定死刑囚が逃亡したというケースはゼロであり、日に日に管理化が強まつて行く今後においてもゼロである。

そうすると、原決定は、刑法三二条一号の適用範囲を、ありうべからざる「逃亡死刑囚」のみに「敢えて」限定しようとすることによつて、死刑にたいする時効制度自体を否定しようとしているのである。

四 さらに又、原決定はそこで、一部の無責任なマスコミに影響されたものと見え、さすがの相手方ですら、答弁書および二通の準備書面でも主張しなかつた俗説をのべている(一一七頁―一一八頁)。

「ちなみに、仮に請求者らの主張するように、死刑の執行を前提として拘置をされていた者についても、三〇年の経過によつて死刑の時効が成立し、釈放されるべきであると解すると、責任がより軽い筈の無期懲役、無期禁錮の確定裁判を受け、その執行を受けている者が三〇年たつても釈放されないことの不均衡を生ずることともなる」と。

1 何度も言うように、無期懲役・無期禁錮で獄に入つている者は、「刑の執行」を受けているのである。

ところが拘置死刑囚は、「刑の執行」を受けていないのであつて、その意味では、逃亡死刑囚と全く同じなのである。

そして、刑の執行を受けている者に時効が進行せず、刑の執行を受けていない者に時効が進行するのが、正に「刑の時効」という意味なのである。

したがつて、拘置死刑囚と、三〇年受刑している無期囚との間の「不均衡は、刑の時効の制度が本来已むを得ないものとして予定しているところであつて、もし、敢えてこれを否定しようとするならば、死刑の時効制度自体の否定につながることになる」(原決定一一六頁―一一七頁)のである。

原決定の論理をつきつめれば、「逃亡死刑囚について三〇年の経過によつて死刑の時効が成立するとすると、責任がより軽い筈の無期懲役、無期禁錮の確定裁判を受け、その執行を受けている者が三〇年たつても釈放されないこととの不均衡を生ずる」という所まで行つてしまう。

しかし、それでは「刑法三二条一号制度自体の否定につながることに」(原決定一一七頁)なつてしまうのである。

2 だいいち、無期懲役、無期禁錮囚は、一〇年で仮出獄の恩典にあずかれるのである(刑法二八条)。

そして統計上は、だいたい一五年で仮出獄しているのが現実である。

そして、本人が仮出獄を希望しているに拘らず、三〇年以上、獄につながれている無期囚は、現在ゼロである。

(このいみでは、抗告人は、事実上、無期禁錮を三回以上執行されたことになる。しかも、死の恐怖の下に)。

このように、一部マスコミの無責任な俗説にまどわされた原決定は、ことごとに、ありえない事実を前提として、「時効はダメ、時効はダメ」とがんばつているのである。

私の信仰している般若心経では、この種のことを「顛倒夢想」と言つている。

五 学説

そして、この、「逃亡者に時効をみとめて、被拘置者に時効をみとめないのは、憲法一四条違反である」というのも、大多数の学説なのである。

① 甲三号証(浅井清信教授)

② 甲六号証(粕谷進教授)

③ 甲一一号証(沢登佳人教授)

④ 甲一四号証(田口富久治教授)

⑤ 甲一八号証(浜口金一郎教授)

⑥ 甲二二号証(下程勇吉教授)

⑦ 甲二二号証三八頁(砂田卓士教授)

⑧ 甲二二号証三九頁(佐藤節子教授)

⑨ 甲二二号証四二頁(福田敏南教授)

⑩ 甲二八号証(沢登佳人教授)

⑪ 甲三二号証(田畑忍教授)

⑫ 甲三三号証(重松明久教授)

⑬ 甲四〇号証(粕谷進教授)

⑭ 甲四一号証(ホセ・ヨンパルト教授)

⑮ 甲四二号証(浜口金一郎教授)

⑯ 甲七五号証(法務省内の一部)

⑰ 甲四九号証(沢登佳人教授)

⑱ 甲五〇号証(金沢文雄教授)

⑲ 甲五二号証(斉藤信宰助教授)

⑳ 甲五三号証(田畑忍教授)

甲五四号証(茂野隆晴教授)

甲四六号証(鵜沢義行教授)

甲六六号証(サンケイ新聞の社説)

六 第三点のむすび

以上のとおり、同じく死刑の執行を免れている逃亡死刑囚にたいしてよりも、より一層、時効の完成をみとめてやるべき被拘置囚死刑囚にたいし、時効の完成をみとめないのは、明らかに憲法一四条に言う、「身分により、法律的関係において、差別すること」である。

第四点 附記

一 いずれにしても、本件につき、原決定を支持する学説はたつたの五名(藤木英雄、大谷実、奥平康弘、渥美東洋、板倉宏)であるのにたいし、「拘置中の死刑囚についても死刑の時効が完成する」としている学者は、一八五名である(請求書一三頁―六〇頁の一八三名ひく一名。それと、第四回準備書面四四頁―四五頁の⑪ないし⑬)。

この学者の大勢を、とくと斟酌されたい。

二 さらに、原審の第五回準備書面提出後に到着した学説の要旨を、検索の便宜のため、左に掲げておく。

① 甲一八号証(茂野隆晴教授)「私は、第一に、法の予測しない事態が生じたのであり、第二に、平沢被告のケースを特殊事例として検証したとき、刑の時効制度の趣旨にもとるものではないという観点から、時効が完成すると考える。」

② 甲八二号証(沢登佳人教授)

この甲八二号証以下は、すべて原決定そのものへの批判である。

「刑訴法四四二条但書には、検察官は再審請求中刑の執行を停止しうるとあり、刑法三三条には、刑の執行停止中時効は進行しないとある。再審請求中は審議を尽くすために刑を執行すべきでないと言うなら、検察官は当然この執行停止措置をとるべきである。そうしておけば、仮に死刑囚に時効が適用されても、再審請求中、時効は進行しない。

平沢氏が再審請求をくり返し行なつていた期間を三十年からさし引くと、二年そこそこしか残らないのだから、再審請求期間中、死刑の執行を停止しておいたとすれば、時効期間は満了どころか、まだ二年そこそこしか進行していなかつたのである。

では法務省はなぜ死刑の執行を停止しなかつたのであろうか。再審請求中、いつでも死刑を執行できる状態を維持し、平沢氏が再審請求期間中、枕を高くして眠ることを阻止し、彼を死の恐怖下に置き続けたかつたからとしか、解しようがない。

もし再審請求のつど、死刑の執行を停止していたら、平沢氏は時効の恩恵に浴しえない代わりに、この三〇年間のうちわずかの歳月を除き、死の恐怖におびえることなく安心して生活できたはずである。

ところが現実には、検察官は、死刑の執行を停止せず、三〇年もの間、平沢氏を死の恐怖下に置き続けたのだから、その代償として時効の恩恵が与えられて当然だというのが公平な見解であろう。

今回の棄却決定の如く、その場合も時効を認めぬとすると、再審請求をくり返す死刑囚を、生きている限り何十年でも死の恐怖でいたぶり続けるか、それとも大部分の期間を安心して生活させるかは、検察官の胸一つということになる。

そして平沢氏への例から見て、わが検察官は今後もきつと再審請求をくり返す死刑囚を、一生、死の恐怖でいたぶり続けるであろう。死の恐怖を与え続けて時効の不利を甘受するか、時効を防ぐ代わりに刑の執行を停止して囚人を安心させるか、その二者択一を迫つているのが刑訴法四四二条但書である。

実は平沢氏の弁護人は、人身保護請求の中で右のことを明確にかつ鋭く指摘していた。刑法学者が知りながら知らぬふりして『時効を認めると再審請求中の死刑執行をうながすから反対だ』と主張したとすれば卑劣であり、知らなかつたとしたら不勉強である。

また裁判所が、弁護人の明確な指摘に耳を貸さず、『死刑執行は慎重を期すべきなのに、時効を認めると再審の門戸が開かれる可能性のある者にも死刑を執行せざるをえなくなる場合がある』と述べているのは、許せない。

さらに法務当局が『人道上の配慮から再審請求中死刑執行を見合わせたのだ』と主張するに至つては『よくもぬけぬけと』である。

死刑執行の意思がなかつたのなら正式に執行停止を行うべきで、そうすれば時効を気にせず十分審理してもらえる上に、平沢氏も死の恐怖にさいなまれずにすみ、一石二鳥の人道的配慮だつたはずである。

特別抗告に対して最高裁は、今度こそごまかさずに、弁護人のこの主張に耳を傾け、明確適切な判断を示してもらいたい。」

③ 甲八三号証(重松明久教授)「1 今回、地裁が却下理由を縷々のべたところでは、例えば九六頁において、三二条の『其執行』を『刑の執行の意味に解釈することを文理上可能』としながら、法務省側の『死刑を言い渡した確定裁判の執行を意味すると解することも文理上、十分可能である』とする。

後者の解釈の強弁性は、ためにする論法であり、苦肉的解釈であることは、第三者的立場からは当然の帰結といわざるをえない。」

④ 甲八四号証(沢登文治・裁判所職員)

「平沢元被告の人身保護請求を棄却した東京地裁決定は、主として次の理由により誤りである。

第一に、人道的に許されない。いつ死刑が執行されるかと三〇年間死の恐怖におびえて生活してきた以上、死刑に相当する苦痛を既に受けており、これ以上の苦痛を拘置または死刑により与えることは、人の道に反するからである。

第二に、憲法一四条により保障される平等原則に反する。逃亡を続けていた者に時効の恩恵を与えながら、死に直面しつつ刑務所生活を送つた者にはそれを認めないのは、だれが考えても不平等だ。

第三に、現在継続中の拘置の無効性である。九〇歳を超える高令の平沢氏の死刑執行を、現法務大臣は行うつもりであろうか。そうでないなら、死刑執行のために継続されている拘置は意味をなさない。

第四に、時効の成立問題。人身保護請求書に記載されているように、全国の法律学者の実に一八三人が成立すると考えている。この点から言つても、在監中の受刑者には時効は成立しないとした当決定は、時代の流れに逆行するとの非難を免れない。」

⑤ 甲八五号証(増岡喜義教授)「時効の成立について拘束者は、『拘置の事実を以て、既に死刑の確定裁判は執行されており、時効は完成しない』と主張するが、かかる主張は、死刑なる刑罰と他の刑罰との基本的・本質的な相違を識別せざるによるもので、謬論である。

たとえば、拘束者が『拘置は死刑という確定裁判の執行の一部』と主張する如きがその一例であつて、死刑を言い渡した確定裁判の執行は絞首そのものを意味するもので、それ以外の何ものでもないことは、刑法一一条に明記しており、一般国民の常識でもある。」

⑥ 甲八六号証(茂野隆晴教授)「本事件に関し、歴代法相が、かなり早い時期から死刑執行命令を発しないということが慣行となつたことは確かなことである。

従つて、被告は、大臣が死刑執行命令を発しないことが慣行となつた時点から、法律によらずして、慣行により、長期間にわたつて自由を奪われていたことになる。即ち、結果において、罪刑法定主義に反した処罰がなされたことになる。」

三 以上のとおりであるので、憲法三一条・三四条・三六条・一四条に違反する原決定は、即時破毀のうえ、即時釈放の自判がなされるべきである。

抗告人は九三才(数え年九四才)。骨と皮ばかりになつて死に瀕している。

一日も早く、一時間も早く、一分も早く、お願いしたい!

死んでからでは、遅すぎるのである!

(添付書類省略)

昭和六〇年六月一五日付抗告理由書(つづき)記載の抗告理由

その後到着した学説

特別抗告理由書作成後に抗告人に到着した学説の要旨は、つぎのとおりである。

なお、これらも、前同様、原決定そのものにたいする鑑定書である。

① 甲八七号証(ホセ・ヨンパルト教授)

「1 刑法三二条だけを読めば、時効は死刑の言渡しが確定した後三〇年間、『其執行』すなわち『死刑の執行』を受けないことによつて完成することは明らかである。これが言葉の通常の意味であり、どんな者が読んでも、そのように理解するであろう。原決定のなかでも、このように『理解することも文理上は可能といえよう』と認めている。

2 また、理論的に考えると、原決定の言うように、必然的な前置手続、すなわち拘置によつて死刑の時効を否定するという結論は出され得ない。もし、そのように考えるならば、死刑判決の言渡しも、死刑執行の一つの必然的な『前置手続』であるのだから、死刑執行には時効はあり得ないことになつてしまう。

3 また、原決定では、逃亡者との比較から出てくる不公平さについては認めている。しかしながら、『このことは、刑の時効制度から不可避的に生ずる結果である』としているだけである。

そして憲法にも違反するそのような不公平を忍ぶ理由として、原決定は、次のことを挙げているだけである。『死刑の裁判確定後に逃走した者との間に生ずる不均衡は、刑の時効の制度が本来已むを得ないものとして予定しているところであつて、もし敢えてこれを否定しようとするならば、制度自体の否定につながることになろう』と。

つまり、原決定は、無理な解釈でもつて、この場合死刑が時効にかからないと決めてしまつたのである。言い換えれば、公平よりもこの制度自体を、公平よりも無理な解釈の方を、優先させたということである。

4 むろん、死刑制度を根本的に改正すべきか、それとも全面的に廃止すべきかは、本件が残した課題であるが、差し当つては、人権を侵害し得る国家権力の不必要な強化は避けるべきであろう。現時点では、実態の悪化をみとめるよりも、実態を、少しでも憲法の精神に合わせていくことが期待されよう。」

② 甲八八号証の一ないし三(斉藤信宰助教授)

「1 原決定九六頁

刑法三二条一号に『死刑ハ三十年』と規定されていることについて、東京地裁は、『請求者らの主張も文理上は、解釈可能といえる』としつつ、『拘束者の解釈も可能といえる』としている。

そしてその点については、判例もなく、学説も分かれている。

それならば、『疑わしきは被告人の利益に』『被告人に有利な類推解釈は許される』ということを採用すべきではなかろうか。

A説がある、B説がある。しかし、それについては判例もない。それならば、被告人に有利な解釈をする。それは法の世界では常識である。

2 原決定一一六頁の『社会規範感情の緩和』ということについて。

有罪の証拠もないまま、三〇年間収監された者を釈放せよという世論が、まさに『社会規範感情の緩和』と解するのが当然である。

また、『刑の時効を認めることの反倫理的な面、時効の利益を享受できない者との相対的な不公平さは、そもそも刑の時効の制度に内在する性質なのである』と言つているが、不公平さをみとめるのなら、少なくとも、前例のないことを裁くにあたり、裁判官は、正義をもつて裁かなければならないのに、不公平さをみとめながら、その不公平さを是認するというのなら、裁判官は、一体、何を裁くのであろうか。

3 いずれにせよ、私は、刑法解釈学の立場から、『被告人に有利な解釈は許される』とする罪刑法定主義の立場こそ、今回の件では威力を発揮すると思つている。」

(添付書類省略)

昭和六〇年六月一七日付抗告理由書(つづきの二)記載の抗告理由

つぎのものは、いずれも原決定そのものにたいする法学者の鑑定書であつて、本日到着したものである。

以下にその要旨を摘示する。

甲八九号証(佐藤昭夫教授)

「一、刑法三二条の文理解釈

時効制度の趣旨にしても、原決定みずから『歴史的には、刑の時効制度は、古くから普遍的なものとして存在したわけではなく、これを認めない法制度もあつたし、殺人その他一定の重罪に適用を認めないものも見られた』(一一七頁)というように、どのような趣旨で時効制度が認められているかは、その具体的規定により明らかにされるべき問題である。そして文理上からみるとき、『其執行』が『刑の執行』ではなく、『刑を言渡した確定裁判の執行』であり、しかもそれは『刑の執行』とは内容的にも別物だとする解釈は、極めて不自然であり、むしろ牽強附会に類するといわねばならない。

1 たしかに、確定するのが裁判だということは可能であるが――裁判によつて言い渡された刑が確定するのだが――、しかし刑法において『執行』とは『刑』について語られることであつて、『裁判』についてではない。

たとえば、刑法三四条一項『時効ハ刑ノ執行ニ付キ(「裁判ノ執行ニ付キ」ではない)犯人ヲ逮捕シタルニ因リ之ヲ中断ス』。

三四条ノ二第一項『禁錮以上ノ刑ノ執行ヲ終リ又ハ其執行ノ免除ヲ得タル者罰金以上ノ刑ニ処セラルルコトナクシテ十年ヲ経過シタルトキハ刑ノ言渡ハ其効力ヲ失フ。罰金以下ノ刑ノ執行ヲ終り又ハ其執行ノ免除ヲ得タル者罰金以上の刑ニ処セラルルコトナクシテ五年ヲ経過シタルトキ亦同ジ」。

また三三条は「時効ハ法令ニ依リ執行ヲ猶予シ又ハ之ヲ停止シタル期間内ハ進行セス」とあり、執行猶予については刑法第四章『刑ノ執行猶予』中に規定されている。

これら第四章・第六章の規定をみるとき、第六章の三二条の『其執行』だけが『刑ノ執行』ではなく『裁判ノ執行』を意味すると解するのは、刑法条文の文理上不自然である。

2  『其』の語は、前に出た名詞(句)を受ける指示代名詞としては、同一語句を繰り返す煩を避けるために用いられる。刑法の立法者が、三二条の『言渡』は『裁判』と同義であるが、『刑ノ裁判』という用語例がないことから『刑ノ言渡』という表現を採用したのなら、なぜその条文を『刑ノ言渡確定シタル後左ノ期間内裁判ノ執行ヲ受ケサルニ因リ完成ス』としなかつたのか。そのように規定すれば、『其』を用いないでも同一語句の繰り返しの煩もなく、意味もはつきりするではないか。それを『其執行』としたのは、『裁判ノ執行』ということではなく、『其』によつて、前出の同一名詞である『刑』を指す意図であり、また『執行』がつねに『刑』について語られている前後の条文からしても、それで誤解が生じようがないと考えたからであろう。

3 三二条は『刑ノ時効及ヒ刑ノ消滅』に関する第六章の中の条文である。刑の時効は刑の執行を受けないことにより完成すると解するのが自然の関連であり、もし他の趣旨の規定であるならば、その旨が文言上明示されていなければならない。『其』が条文の文言上全く見当らない『裁判』を指すと解するのは、恣意的な結論に合わせるため文理をまげた解釈というべきである。

以上の諸点からみて、文理上『其執行』は『刑の執行』を指すと解されるのであり、その結果が明白に不合理でないかぎり、他の解釈を容れる余地はない。

二 刑の時効制度の趣旨との関係

1 また、原決定において、時効制度の趣旨とするところと、被拘置者に時効の進行を認めない結論とは、調和しない。原決定の言う『事実状態』、『事実上の秩序』は、国家法の立場からする規範的秩序、当為の秩序とは異なる。被拘置者は、当為の秩序において『死刑の執行を受けるべき者』として扱われながら、しかも事実として死刑の執行を受けることができなかつたという事実状態が続いていたのである。この事実状態が三〇年間続いたとき、『死刑の執行を受けるべき者』とする規範的秩序を消滅させるのが、事実上の秩序の尊重、時効の完成を認める趣旨だというべきであろう。

2 また、原決定は、時効制度の趣旨を敷えんして、逃走死刑囚と被拘置死刑囚との間には『社会生活関係の差異』があるとする。

しかし、この点でも、①死刑執行の前置手続としての拘置が長期間続いている場合でも、『犯人の逃走等によつて長期間刑の執行が行われない状態が継続する』という事実関係、事実状態が存在することに変りはない。そして逆に犯人が逃走した場合であつても、国家法上はそれが『逮捕されるべき者』であり、逮捕した上で『まさに死刑の執行を受けるべき者として一貫して扱われ』ている点では、一貫して拘置が続けられている場合と同様である。もしそうでなく、逃走すれば『まさに死刑の執行を受けるべき者』でなくなるとすれば、『刑ノ執行ニ付キ犯人ヲ逮捕』(刑法三四条一項)することの根拠もなくなつてしまうだろう。

②他方、社会一般の『規範感情の緩和という点』でも、死刑囚が拘置されている、いないに拘らず、時間の経過とともに『犯罪、犯人の印象、記憶も不鮮明』となることに変りはない。むしろ長期の拘置のあとひつそり死刑執行がなされる場合に比べ、犯人が逃走した場合には、世人は裁判が公正であると確信するかぎり、その脱獄囚に対して憤激し、記憶を持続させるであろうし――ことに指名手配がなされた場合など――、また逃走者の時効完成が迫つた場合には、通常マスコミ等が大きくとりあげるであろうことからしても、印象、記憶は、より鮮明となるであろう。そして規範感情の緩和は、脱獄者に対してよりも、いつ死刑執行されるかという死の恐怖に直面しながら三〇年も拘置を続けられてきた者に対する惻隠の情として、より強く生ずるのが、権力に奢つたサディストではない『社会一般の感情』というものであろう。

③脱獄者の場合、国家権力によつて『一般社会から隔離』されておらず、『本人について一定の一般的な社会生活関係が形成されて行く』ことがあつても、それはごく限られた狭い範囲のことにすぎず――そうでなければ逮捕されるであろう――、『社会一般』はその者と接触してもいないし、『社会一般の感情』がそれによつて左右されるわけではない。『社会一般』としては脱獄囚がごく狭い範囲において形成した具体的な一定の社会関係など知りもしないし、関心の外にある。『社会一般』にとつて重要な意味をもつのは、脱獄囚であると拘置を受けている場合であるとを問わず、死刑の宣告を受けながら死刑執行を受けることなく三〇年をすごしたという事実の重みであり、死刑の執行を受けることがなかつたという社会関係である。

3 原決定は、さらに『時効により、被拘置死刑囚を釈放すれば、それまで形成維持されてきた死刑の執行を受けるべき者としての生活関係をそのままの姿で尊重すること以上の効果をもたらすことになるので、時効制度の趣旨を明らかに超えるものである』という。

しかし、この論理も、事実上の秩序と規範的秩序との恣意的混同である。『拘置されてきた者を刑の時効によつて一般社会に釈放する』ということは、死刑の執行を受けることなく長期間継続してきた事実状態を尊重し、それを『今後も死刑の執行を受けることはない』という規範的秩序として承認することを意味する。そして拘置が『死刑の執行行為(絞首)に必然的に付随する前提手続』(九九頁)である以上、死刑執行の根拠が消滅するに伴つて、拘置の根拠もまた消滅する。釈放はそれに必然的に付随する効果である。

このことは、民法上被担保債権が時効により消滅した場合、留置権の場合に留置物の、質権の場合に質物の返還義務が生ずるのと同様の事理である。

以上の諸点からみて、身柄を拘置されている者について時効制度の趣旨を理由に時効の進行を否定する原決定の論理は、維持しえない。」

そしてこの佐藤昭夫教授の鑑定書は、さらに、刑の時効の中断との関係でも、逃亡者との均衡の問題でも、残虐刑の禁止との関係でも、原決定の理論が法律学的に成り立たず、また、原決定で心配している「死刑の執行促進のおそれ」が全く杞憂であることを、五五頁に亘る大論文において、詳細に論証されている。

甲九〇号証(沢登佳人教授)

新潟大学法学部の刑法の教授であるが、一六二頁の大論文をもつて、同じく原決定につき、①刑法三二条の文理解釈、②刑法一一条二項の拘置の性質、③刑の時効制度の立法趣旨、④刑の時効の中断との関係、⑤逃亡者との均衡、⑥残虐刑の禁止等との関係、⑦刑の時効の停止との関係、⑧法律解釈についての諸原則との関係のすべての点につき、原決定の論理が憲法上、刑法上成り立たない所以を詳述され、かつ、「死刑の時効をみとめても死刑の執行を促進することには絶対にならない」旨を、刑法学に基き、詳しく論証しておられる。

甲九一号証(戸田武雄教授)

死刑の執行停止と時効の停止との関係につき、原決定は、成り立たないとされる。

甲九二号証(田畑 忍教授)

原決定の、①刑法三二条の解釈、②同法一一条二項の解釈、③刑の時効制度の立法趣旨の解釈、④時効中断との関係、⑤逃亡者との均衡、⑥残虐刑との関係についての判断は、いずれも憲法に違反すると断じておられる。

甲九三号証(藤井紀雄教授)

同じく原決定中、①刑法三二条の「其執行」の意味、②同法一一条二項の「拘置」の意味、③刑の時効の立法趣旨にかんする判断が、法律学的に成り立たないことを論証しておられる。

(添付書類省略)

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